芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

マン・レイ展

11月2日、国際国立美術館、マン・レイ展。僕にとって彼の展覧会は二回目である。1985年3月頃に詩人の中江俊夫と滋賀まで足を運んだ。余談になるが、滋賀といえば、その二年前にも中江俊夫とアンリ・ミショー展に大津の西部ホールまで出かけたのだが。

今回のマン・レイ展はマン・レイ財団のコレクション約400点を紹介したものである。それを年代別に四グループに分け、彼の全貌に迫ろうとした意欲的な展覧会だといえる。

「作品そのものは破壊して、複写のみを保存する時がきた」このマン・レイの言葉は二十世紀の大量生産・大量消費の時代にふさわしい発言であろう。言い換えれば、美は原版とそのコピーで成立する。原版を破壊してもそのコピーは残る。したがって、必要な時、必要な量だけいつでも美は再生できる。

作品のアウトラインはおおよそ以下のとおり。
1)Priapus Paperweight用のPriapusとおそらく置物として鑑賞用のMarble製Priapus.
2)記録写真 パブロ・ピカソ、アンリ・ルソーなどの作品記録。自らの作品予定を含む。マン・レイの脳髄の代用か。
3)ビジネス写真 トリスタン・ツァラ、フランシス・ピカビヤ、ジャン・コクトー、レイモン・ラディゲ、アーネスト・ヘミングウェイ、フェルナン・レジェ、エリック・サティ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、パンジャマン・ペレ、アルベルト・ジャコメッティ、ハンス・ベルナール、キキ、エヴァ・ガードナー、ヘンリー・ミラー、イサム・ノグチ、ジュリエット・グレコ、カトリーヌ・ドヌーブ、マルセル・デシャン。
4)実験写真 レイヨグラフ。及びその製作に用いられた道具類。作品No234「大人のためのアルファべっト」
5)風景・生物・静物写真 大聖堂からダチョウの卵、バッタやヒトデまで。
6)Solarization 作品No115.
7)黒と白 ポジフィルムからネガフィルムを作製して左右反転の鏡像が出現し、かつ、黒と白とが逆転した二枚の写真。
8)色彩定着技法によるカラー写真 確かに作品No285は静物画に見える。また、ここでもPriapusとSadeが出てくる。
9)Nude もはや説明の要もなく。
10)部分への偏執 とりわけ、手、アイロン、足、ランプシェード、眼(のぞきを含む)、影。
11)無頓着物質 「夢」、「サドの架空の肖像」、Man Ray with Max Ernst Frottage。天文台の時ー恋人たち。無題(黄金の唇)。

僕はこのGold Lipsの写真を買って部屋に飾っている。
ドローイング(作品No237,238,241,330,331)。ブロンズ(作品No21,135)。木。鋼鉄(作品No232,266)。リトグラフ(作品No185,188,251,252,382,383,384)。ダンボール。油彩。インクと紙。
大量消費時代の美。

モダニズムを支持したのは、確かに若者であって、老人ではなかった。つまりモダニズムは過去を切断して、現在から未来を志向したのであろう。エマニュエル・ラド二ツキーを切断して、マン・レイへ。そこには老人も死者もいない、また必要でもない、後方に映った自らの影さえもはや消えていたのであろう。

コレクション2「近年の収蔵品を中心にして」の展示室へも回ってみた。ここでは絵画、素描、版画、写真、彫刻の日本近・現代作家の作品約200点が公開されている。僕はその中で特に日和崎尊夫の「詩画集『卵』より」に注目した。僕には初対面だが、高知県出身の版画家で1992年に50歳で物故している。けれどもこの数作を見ただけでも鑑賞者は次のような思いを禁じ得ないであろう。つまりこの作品群は極めて上質な黒の集積であり、静謐だと言えるまでに耐え抜かれた哀愁であり、同時にまた底無しの深淵の結晶体、その視覚化に違いないと。僕は、今夜から、僕の脳髄の画廊の西側に架かっている田中恭吉、駒井哲郎の横にこの作品群を吊り下げておこう。