芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

恐山

2010年9月14日<>朝、薬研温泉の旅館を出て、恐山へ。

「人は死ねばお山さ行ぐ」

三途川(正津川)を渡ると広い駐車場があり、その背後に恐山菩提寺。正門に向かって左側からその後方にかけて火山岩に覆われた「地獄」と呼ばれる風景と、澄み渡った宇曽利湖の「極楽浜」が。

開山は貞観4年(862年)。開祖は天台宗を開いた最澄の弟子、慈覚大師円仁。

地獄を歩いていて、ふとイグナチオ・デ・ロヨラの「霊操」を思い出した。岩波文庫から門脇佳吉訳で出版されているので、お読みになった方も多々あると思う。余りに唐突な連想だろうか。いや、そうでもなかろう。たとえばこの本の中の第一週第五霊操の第一要点から第五要点まで引用してみる。(114頁、115頁)

第一要点 想像の眼で、地獄の燃え狂う炎と、その中で焼かれている魂たちを見る。
第二要点 耳で、地獄の泣き叫びと悲鳴を聞き、主キリストと諸聖人に対する冒瀆の声を聴く。
第三要点 鼻で、地獄の噴煙と硫黄の悪臭と、ごみ溜や腐敗物の悪臭をかぐ。
第四要点 舌で苦い物を味わうように、地獄で流される涙、悲しみ、良心の呵責を味わう。
第五要点 手で触れるように、地獄の炎が魂に触れ焼き尽くすのを身で感ずる。

バスで下北半島を南へ。三沢空港から伊丹空港まで。その途上、午後の空の上で、三途川を渡りふたたび恐山の地獄めぐりの果てに極楽浜に向かって歩き続ける死後のビジョンがやって来る。地獄即浄土。明け方、自宅のベッドの上で夢の映像が絶えるまで。鼻で、地獄の噴煙と硫黄の悪臭と、ごみ溜や腐敗物の悪臭をかいで。すでに魂も焼き尽くされて。おつかれさまでした。