芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「細雪」を読む

 ここ数年、ボクはほとんどテレビを見ていない。それでもワイフが健在な時はNHKの7時のニュースを夕食を食べながら見るとはなしに見ていた。しかし去年の7月にワイフが死去してから、テレビはボクの記憶から消滅した。新聞のテレビ欄の一行も読んでいない。

 なぜこんなつまらない私事を書いているかと言えば、谷崎潤一郎の「細雪」は連続テレビドラマのような雰囲気を覚え、テレビに興味がないボクにはこの小説を読む気はしなかった。といって、ボクは中学生の頃に見た「氷点」という連続テレビドラマを見て以来、ほとんどテレビドラマとはお付合いがなかったので、あまり偉そうなことは言えないのだけれど。

 数年前に読んだ吉本隆明の「日本近代文学の名作」(新潮文庫)から引用すれば、「谷崎潤一郎の初期の作品はSM、フェティシズム、同性愛など、一般的には異常性愛と考えられている性愛をテーマにした作品が特徴的だった。こういった作品群は話としては面白いが、私は未熟でよくわからない。」(同書109頁)、だがむしろボクの場合、谷崎のこういった作品はかなり読んでいるが、「細雪」は面白くなく、読めなかった。吉本は続けて、「のちに古典的な世界に入り、日本の伝統を引き継いだ以降に、彼の小説の面白さがわかるようになってきた。」(同書109頁)と書いているが、ボクは学生時代から今に至るまで劣等生でやってきたので、「古典的な世界」も「日本の伝統」も存知せず、この世に対して逃避的な生活を送り続け、谷崎の作品に関して言えば、異常な、反社会的なエロスを基本にした作品が好きだった。

 吉本の本をもう少し引用すれば、サルトルが来日した時、テレビで日本の現代文学で何がいいかとたずねられた時、「細雪」と答え、「サルトルはこの時確か、日本の女性たちがどんなふうに日常生活をしていて、どう生きているのかがよく描かれた小説だと評していた。つまり、この小説には、日本の若い女性の典型的な姿が描かれているという評価だった。サルトルというのはすごいなあ、よく文学がわかっているよなあ、と思ったのを覚えている。」(同書108頁)、こう書いている。サルトルや吉本隆明のような偉大な文学者・思想家によれば、時代の状況に対応する人間の姿・形の典型を表現するのが文学だ、そう言い換えて大過ないだろう。

 だが好き嫌いで言えば、ボクは「細雪」のような小説は嫌いである、こんなうがった話は。つまり、「典型的」なものをボクは好まない。そればかりではない、ほとんどの「芦屋の人間」は「細雪」のような世界で生きていない。では、なぜ嫌いなものを食べたのか? その理由はこれである。

 

 「孤帆」vol24(発行者とうやまりょうこ、2015年1月1日発行)

 

 去年の5月、とうやまさんが神戸に来られた折、ボクとワイフはご一緒して六甲山をドライブし、六甲ホテルでお食事をしたのだが、芦屋の谷崎潤一郎記念館の辺りも散策した。とうやまさんは「孤帆」でそのことにも触れ、また、「細雪」を読み始めたと書かれていたので、芦屋を舞台にした小説でもあるし、ボクは芦屋に住んでいるので、もし、幸いにもとうやまさんと再会でき、その折、よもやま話に色をそえるため、ただそれだけのために、このたびは、「細雪」を最後まで読んだ。