芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

クープリンの「魔窟」を読む。

 そもそもの発端は、トロツキーの「文学と革命」だった。この本を読んで私は一九〇五年のロシア革命の挫折の前後、十九世紀末から一九二〇年代までのロシア文学に興味を持った。あれこれ作品を読み漁った。このたび読んだ作品もその流れだった。以前、クープリンが一九〇六年に発表した「生活の河」という作品をわたしは読んでいる。この作品は抽象的な観念的な虚無感ではなく、生活の細部に密着した具象的な虚無感を表現していた。わたしはさらに進んでこの作家が一九〇九年に発表した長編小説を読んだ。

 

 「魔窟」上巻 クープリン作 昇曙夢訳 太虚堂書店 昭和21年12月20日初版

 「魔窟」下巻 同上                昭和21年12月25日初版

 

 魔窟とは売春街のことだった。この作品は、その当時南ロシアの大都市キエフにあった売春街の内部をドキュメンタリーに近い手法で暴露した小説だった。人間の労働力を商品として賃金で売買する社会の底辺、言わば成れの果てだろうか、性さえ商品として売買する売春街、そこをねぐらにする魔窟の経営者から使用人、売春婦たち、またそこを訪れる様々な男連中を詳細にわたって小説化したのだった。言うまでもなく、男が女を金で買って性欲を満たす世界を描いたものである。物語の最後に至ってこの魔窟は崩壊する。そのいきさつは直接本書を読んでもらいたい。

 この本を読みながら、ふとわたしはこんなことを考えてしまった。現在の日本ではどうだろうか? 男女は性欲をどのような姿・形で満足させているのだろうか。すべての人とは言わないが、多かれ少なかれ、十九世紀末から二十世紀初頭のキエフと同様、いまだ性を商品として売買しているのだろうか。それにつけても、この「魔窟」という作品は興味深い本だった。

 蛇足ながら、もうずいぶん昔の話だが、わたしが住んでいた地域周辺にもこの作品に描かれたような「魔窟」が存在した。尼崎の「初島新地」、そして「神崎新地」。この二カ所に関しては、私もこの目で観察している。一九六五年、高校一年生、十六歳だった。いずれその時の記憶を何らかの形で言葉にしてみたい。初島新地は一九五五年に開業、一九六八年消滅。神崎新地は初島新地と同時期に開業、取り締まりが厳しい折柄、それでも一九九五年、阪神淡路大震災が神戸を襲った年まで細々と継続していたと聞く。