芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

あの夏の夜から

 いまいましいことです! それはいたし方なかった、そんな逃げ口上なんてトテモ許すわけにはいきません。どうです? 仕方なかったなんて、そこがいまいましい! 必然的? 必ずこうなってしまいます! なんだいそりゃ。そう言って許されますならば、何をしでかしても許されることが必然的かつ宿命的なんでしょうか。確かに、現在わたくしは失業中なんですが、そいつは別に関係ないでしょうが! ごめんなさい。ついつい気持ちがたかぶってしまい大声を張りあげるなんて。イヤハヤ! まったく恥ずかしいことなんですが、働く意志なんて全然ないと表現した方がいいのかもしれない有様なんです。だってこの状態がわたくしにとって必然的かつ宿命的な真実ですから。エッ! 飛んでもない! ズバリこんな風に真実を言い切ってしまって、ただただわたくしは太陽みたいに赤面して恥ずかしくて肩をゼイゼイ上下させているばかりなんですが……。

 お前やる気がないのかい、自分の手でシッカリ飯を食う気がないんだネ……そうです、そうなんです、その通りです、極端に悩んでいます。言ってみれば、若きチンテルの悩み、とでもマア申しましょうか……ソウソウ、オレはとてつもなく悩んでいるのだナア、女にたかっておこぼれの飯にありつく以外どうしようもない男のなれの果て。一言でいえば、ニンゲンのクズ、とこう明確に感じまた納得し始めたましたのは、振り返ってみますれば、ある夏の夜のちょっとした出来事からでした。あのちょっとした……その夜はまさかと思うほど明るい星星が輝き、まるでネットリ濃厚なオレンジジュースのシズクがいっぱいあちらこちらにポッチリ・ポチリン零れて艶めいて、キュンと胸が締めつけられるくらいそれはそれは美しい夜とその星の姿でした。

 ところが、どうでしょうか。黄昏時から徐々に風が強くなってまいりまして、ついに深夜、辺りは戦場かと思われるばかり騒々しくなってきました。バタン!バッタン‼バットントン⁇いきなり窓が強風に押しやられ、ザバッ!ザバザバザバンッ‼砂塵が室内に立ち込めているではございませんか。間違いありません。夜の十一時きっかりのことであります。

「あ」

 あわてて窓を閉め錠をおろしカーテンを引こうとしまして窓辺に急ぎましたところ、不思議ではござんせんか、庭の木はひっそりして風ひとつなく、夜空ではあいかわらず異様なオレンジ色のしずくがネタネタ艶めいて濃厚な光のシズクを零しているではありませんか。

「不吉!」

 とまあ、言ってしまえば何故か恐ろしく不吉な思いがわたくしの脳裏をズンズン犯してきました。ハイ。それからしばらくして……

 ええ。それからしばらくしまして、不吉で騒々しくて黒々とネットリした被害妄想なんでしょうか、そんな奴らがやたら脳の芯をグジャグジャ痛めつけますもんで、ゴンゴロゴロリンコと寝台へ横になりまして、わたくしはまんじりともせず、それでいて放心してボンヤリ虚空を仰いでいました。

『なんだか不吉な夜だナア。ゴロンと休んでるのに、ヒリヒリして喉がこんなにも乾くなんてサア。フム。だったら、水ダア、水を飲んでやれ』

 ムックリコわたくしは体を起こし、水道の蛇口をズイズイ捻ろうとしましたが、なんてこったい! 不思議なことです、これはホントに不思議なことですネ、あなたもきっとこう断言なさるでしょう? サアサアご覧ください、どうぞどうぞ。アア不意に両手が動かなくなってしまいました! モチモチ・モチロン・ギロチンチン! こうして水も飲めずに飢えたままわたくしは打ちのめされて寝台へ突っ伏したのであります。枕に顔をうずめ、わたくしは水責めだ、水ギロチンだ! そんな怨嗟の声をあげていました。

 

 さて、目を閉じてあれやこれや、それやどれや、アアでもなければコウでもないない、飛んでもない、とまあ思いめぐらすうちに、ハッ! 奇妙な事実に突き当たり思い当たり、わたくしはブルンブルブル震えあがった次第であります。どう表現したらわかっていただけるんでしょうかネ。思い切って言ってみますれば、魂の欲望と肉体の欲望とのズレ、そうなんです、ちょっと哲学的な表現になっちまいましたが、この奇妙なズレがいきなりわたくしの胸の中に飛び込んでまいりまして、脳天から足の爪先まで飛んだり跳ねたり暴れまわったり、で、内臓や腸管なんかををゲラゲラ笑いながら踏み荒らしていきました。ホント、全身冷や汗が滲んできましたヨ。

 そうだったのかなア、先程も水を飲もうとして手が動かなかったのもそれだったんだなア。ソウソウ、例えば、思い出しました。ほんの一例ですが、午後三時ごろに歯を磨いていて、『オヤオヤ、今頃になって何故オレは歯なんぞ磨いているのカイ?』……読者もおそらくこんな経験をお持ちでしょうネ。そうでした、まったくもってやりたい放題、カユクもないのに頭をかいてみたり、おかしくないのに笑ってみたり、相手の話を聞いてもいないのに真顔で聞いてるフリしてウンウンしてみたり、とマアそういった経験が我が物顔で、次から次へと頭の中を疾駆したのです。イヤな思い出が走り回っているじゃアありませんか。そうかイ、そうだったのかイ、さっきも水を飲もうとして手が動かなかったのもそれなんだなア、きっとそれなんだよなア……。

 あれこれ思い煩っておりますうちにも、やはり、今日も夜はやってまいりました。あの夏の夜以来、夜はイヤ。トッてもイヤ。だって寝台に寝ころんでいるたび、奴らは頭の中を走り回っているんです。毎晩毎晩わたくしを襲ってくる「魂の欲望と肉体の欲望とのズレ」から発生した奴らの高々と足音を踏み鳴らす無限行列の行進をおびただしいハエでも追っ払うように首を左右にイヤイヤして振りながら、天井を見つめ、彼等から逃れるために、懸命に天井板の節目を数えておりました……一つ……三つ……五つ……ところが、アレは情け容赦なくやって来ました。強烈な肉体の欲望が魂の欲望をヒネリつぶしていました。キャーン! 下腹部を蹴り上げられた犬のような悲鳴が脳天にさく裂しました。こめかみがピクピク痙攣し、両手がフンワリフワフワ空中を浮遊していたのでございます。ここから先は、もうコンリンザイ語りたくもございません。ええ、どうぞ、ご勘弁くださいまし、カミソリで顔をすっかりそぎ落とし、まるでノッペラボウになってしまった詳しいいきさつなんて。もちろん上半身や寝台は血だらけでした。そのうえ魂を裏切ったわたくしの肉体、この両手が首を絞め、ついに悶絶し、どんどん薄らいでいく意識の中で、寝台から血みどろになって転落していく自分をわずかに覚えながら、プッツーン、いきなりフィルムが切れて、なにもかもが未明の闇に消滅していきました。

 

 お父さん、どうかわかってください。これがわたくしです、わたくしのすべてなんです。