芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「お伽草子」を読む。

 ハイネの「ドイツ古典哲学の本質」で民話について言及されていたことは既に私はブログに書いた。また、それに触発されて先日読んだ岩波文庫の「日本昔ばなし」全三冊の流れの中で、さらに日本の民衆の考え方・感じ方を学ぼうと、この本を選んで読んでみた。もちろん、言うまでもなく、明治時代から始まる資本主義化された日本以前に、この地に住んでいた民衆の思いや心情、それを学ぼうとしたのだった

 

 「お伽草子」 島津久基編校 岩波文庫 昭和49年10月20日第29刷

 

 室町時代から江戸時代初期にわたって書かれた御伽草子に分類されて残存する作品はおおよそ四百篇あるということだが、その中から十八篇の作品がこの本では収録されている。口承文学の「日本の昔ばなし」に共通する作品として「浦島太郎」や「一寸法師」が収録されているが、草紙であって、ほとんどの作品は作者不詳ではあるが文字で表現されたものである。従って、より明晰に物語の流れが構成されているのは論を俟たない。

 この本を読了して私は不図こんな思いにとらわれていた。明治以降、日本は西洋の資本主義を積極的に取り入れて社会を形成してきた。その思想の根幹は、大局的に言えば、人間中心主義、そう言っていいのではないか。現実的には、旧来の身分制度の廃止、土地の自由な私有化などによって個人の自由で平等な社会の実現を目指したのだった。

 ところが、この本に出てくる人々や動物たちは、現在のわれわれとは違った思いや心情を持って生活をしていたのだった。私は「人々や動物たち」という言葉を使ったが、日本の神道や仏教がこの世を支配する側の人々だけではなく広く民衆の中でも生かされてくる間に、有情非情悉皆成仏、つまり、生きとし生けるものはすべて仏である、そんな思いと心情が定着していったのではないか。「お伽草子」読んでいて明治時代以降に日本に定着した人間中心主義の思いや心情との落差に私は気付き始めていた。