芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「日本の昔ばなし(Ⅰ)」を読む。

 数日前、ハイネの「ドイツ古典哲学の本質」を読んでいると、民話についてかなり詳細にわたって言及されていた。私はとても興味深く読み進んだ。ハイネの論の骨子は、ドイツの中世、ローマ・カトリック教会はドイツで宣伝・拡大・維持するために農民を中心として昔から口承されてきた民話を利用したということだった。カトリックの信仰思想は神の国であり、民間に土着している民話はサタンの世界だった。言うまでもなく、この神とサタンの争闘は、神が勝利する。信仰思想が民話を利用して、民衆を洗脳するのだった。昔から、時の権力が自分の体制を宣伝・拡大・維持するためのやり口の、ひとつの典型だった。

 私はもう一度民話を読んでみようと思った。以前読んだドイツの民話を集大成したグリム兄弟の「グリム童話全集」全三巻(小学館)を再読しようと思った。だが、思い直して、それは後日に回し、この本を選んだ。

 

 「日本の昔ばなし(Ⅰ)」 関敬吾編 岩波文庫 2002年5月24日第62刷 

 

 この本は、六十篇の昔話が収録されている。なかでも、「こぶとり爺さん」や「かちかち山」はどんな形にせよ、幼年時代をこの日本で暮らした人には記憶に残されているのではないだろうか。しかし、戦後生まれの大半の人は、両親やおじいさんおばあさんからではなく、つまり口承ではなく絵本からだったに違いない。あるいは、お母さんが子供に「かちかち山」の絵本を読んで聞かせたのかもしれない。

 全体的に見て、人間の階級としては金持ちと貧乏人が前景に出て、政治的な権力者は余程のことがない限り話題にならなかった。衣食住とそれにまつわる空想や想像的世界で一定の秩序が完結する物語群だった。長者が貧乏人に、貧乏人が長者になる逆転劇が多々あったにせよ、結局、金持ちと貧乏人が併存する元の秩序に帰るのだった。また、この世界では、宗教や信仰に関して言えば、原始的な宗教・信仰が支配していた。

 ところで、私事になるが、幼年時代、私はこの本の中では「飯くわぬ女」という話だけは直接母の口から聞いた記憶がある。人生の晩年に来て、私の頭の中で話の流れ全体はボンヤリしてしまった。だが、特に記憶に残っているのは、ある日、家にやってきた女が、深夜、釜にたくさんご飯を炊き、皿に山ほどあるおにぎりを作っていた。何をやっているのかとあやしんだこの家の主人が部屋をのぞいていると、女は自分の髪の毛をはずして、頭の天辺に開いている穴におにぎりを放り込んでいるのだった。

 私の心にこの話が強く印象されて、いつまでも深層に残されたのだろう。もう四十九年前になるが、二十四歳の時に書いた作品集「月光と白薔薇と」の第六話「おにぎり」という作品で私なりの文章でこの物語を表現した。この作品集は亡妻が当時ガリ版で印刷して本にしてくれた。その改稿を、「芦屋芸術十二号」(2021年3月1日発行)に発表している。興味のある方はご覧いただきたい。

 今にして思えば、女の頭頂に開いている穴ないし口、その穴ないし口からおにぎりを食べている女の姿は幼年期の私にとって性的な、得体のしれない恐れがすさまじく波動する幻影だったのかもしれない。このたび、この本に収録されている「飯くわぬ女」を一読、再読して、ふとそう思ったのだった。