芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

フォイエルバッハの「キリスト教の本質」

 このところキリスト教神秘主義関連の本を読んでいるので、やはり、その対極に立っている本も読んでおくのが、事柄の公平性を求める私にとっては必然だった。

 

 「キリスト教の本質」上 フォイエルバッハ著 昭和43年7月10日第24刷

 「キリスト教の本質」下 フォイエルバッハ著 昭和43年6月10日第18刷

   (上、下共、岩波文庫、訳者は船山信一)

 

 二十歳くらいの時に読んだ本を本棚から引っ張り出していまさらながら読み返してみる、私にはそんな日々を過ごすのが、ますます多くなってきた。だから、現在、二十一世紀になって、どんな人がどんな作品を書いているのか、いよいよわからなくなってきた。しかし、私は歳をとればとる程、目先を追わなくなってしまった。たまたま私の人生の大半だった二十世紀、人類が初めて経験した最大の地獄、言うまでもなく第一次大戦と第二次大戦のことだが、そしてここが重要なところで、この地獄は周知のとおり自由と平等と友愛、それを実現せんとした民主主義を謳歌するヨーロッパを中心にして勃発した。いつのまにか私は、あたかもダンテのごとくこの地獄めぐりを終えてから、永眠したい、そう考えるようになってしまった。事実、我が国も明治時代から富を目指して欧化政策を疾駆する中で、この地獄に参戦したのではなかったか。いったい何があったのか?

 それはさておき、まず本書の上巻47頁を開いていただきたい。ここには、この著者の宗教に対する基本的な立場が書かれている。著者はこう言う、

 

 「宗教は人間が動物に対してもっている本質的な区別に基づいている」(本書上巻47頁)

 

 ならば、宗教が動物に対して区別しているものは何か、つづいて著者は明らかにする。

 

 「人間にとっては自己の個体性が対象であるだけではなくて、自己の類・自己の本質もまた対象である」(同48頁)

 

 従って、神は石や馬や犬や野の花や空の鳥とは語らず、必ず人間に向かってお話をする。何故なら、人間は自己の類・自己の本質を自己の外に、超自然的な神として想像し対象化したのだった。だから、この超自然的な存在者は、スズメやカラスやミミズといった自然一般とはお話をしない。ただひとり、特殊な自然に対してお話をする。つまり、彼自身、すなわちこの超自然的な存在者、一言で言えば、神自身を創造した人間という特殊な自然とだけお話をする。神が人間とお話をする、この事態を端的に表現すれば、人間が自らの神性な本質とお話してるのだった。

 フォイエルバッハはこのように宗教を規定する。

 

「宗教とは人間が自分自身の本質に対して関係することである。ここに宗教の真実性と道徳的治癒力とが横たわっている。しかし人間は(宗教においては)、自分自身の本質としての自分の本質に対して関係するのではなく、自分から区別されたーそうだ自分に対立させられたー他の本質(存在者)としての自分の本質に関係するのである。」(本書下巻27頁)

 

 他の本質(存在者)とは、もちろん、人間が自己の本質を疎外して外部に対象化した神だった。ところで、人間が自己の本質を疎外して、空想の存在者、想像の存在者、超自然の存在者、つまり人間の感性に生きている現実を疎外した神の世界ではいったいどのような非現実的な事柄が発生するのだろうか。例えば、この地上にはもともと神も地獄も存在していなかったが、神を信仰する人間が出てきて、その背後から地獄も出てきた。地獄は、神を信仰しない者、否定する者、相手にしない者たちのために、信仰者の心からこの世に出てきた。十字軍や魔女裁判などをご覧いただきたい。神は信仰者のための集団を作り、結果として、不信仰者を排斥し弾圧する。

 さらに続けて、フォイエルバッハはこのように書いている。

 

 「自然や世界はキリスト教徒にとってなんらの価値もなんらの意義ももっていない。キリスト教徒にはただ自分のこと・自分の魂の救いのこと・またはーこれと同じことであるがー神のことを考えるだけである。」(本書下巻192頁)

 

 フォイエルバッハは確かこのようなことも書いていた。―キリスト教は、世界の没落に際してキリスト教徒だけが救われると規定している。例えば、黙示録を見よ! なんという利己主義者の集団だろう!

 

 また、本書下巻は「キリスト教の本質」を批判した論文を反批判したフォイエルバッハの論文を二編掲載している。非常に興味深い論文だった。この本は、ぜひ、宗教を信仰している人に読んでもらいたい。余計なお世話かもしれないが。そればかりではなかった。私は思うに、マルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼ」やエンゲルスの「フォイエルバッハ論」を読んだだけでフォイエルバッハは卒業した、こうした考え方を持っている人こそ、更に進んで直接フォイエルバッハを読むのも、一興ではないか。