芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「後藤光治個人詩誌アビラ9号」を読む。

 後藤光治さんから詩誌が送られてきた。

 

 「後藤光治個人詩誌アビラ9号」 編集発行 後藤光治 2022年3月1日発行

 

 この詩誌はすべて後藤光治の執筆になるもので、まず、「ロラン語録」、「詩作品」七篇、ロマン・ロラン断章、これは[ジャンクリストフ]と[清水茂断章]の二部に別れている。続いて「詩のいずみ」、今回は詩人南邦和の「原郷」を中心にして論じ、最後に「鬼の洗濯板」ではソシュールやフッサールを援用して詩の新しい解釈の地平を築こうとするものだった。すべて意欲的な作品群だが、とりわけ、高校三年生の時に出会ったロマン・ロランを現在に至るまで取って離さない姿勢に、私は驚きを禁じ得なかった。

 さて、巻頭の詩「山の少女」は、山の少女と海の少年というまったく生まれ育った場所が異なる男女が、ほとんど奇跡的に同じ屋根の下で暮らす、そして晩年、二人の偶然の出会いを回顧する物語だった。つまり、仏教でいう、所謂「縁」を具象化したものだった。

 「竜胆」(りんどう)と「蛍」の二篇は、輪廻の世界を如何に具象化するか、きわどい詩作品だった。極めて精巧に製作されている。ただ、「蛍」の最終連の三行目、「死者達が哭(おら)ぶように」の一行、同じく最終連四行目の「一斉に」、この「蛍」の静謐な詩に、こうした強い言葉が必要なのかどうか、多少私は迷わなくもなかった。おそらく資質の違いだろう。

 「幸子」は、幸子の「幸」は反語として、不幸の連続のうちに寂しくこの世を去った女性を、短い行数の中で語り尽くした物語だった。また、「夏の土手」は、「鬼の洗濯板」に書かれている、「『現象学的還元』あるいは『現象学的エポケー』を、いくら重ねていっても、最後には還元しきれない何物かが残る。それは、当の還元を行っている主体そのものである。」(本書37頁)、この理論を、卑近な例で証明したものだった。

 残された二篇の詩、「風田」は、「死とは祝祭なのかもしれぬ」(本書7頁13行目)、この一行を突出させるために緻密に仕組まれた物語、「冬の土手」は、風景を描いているが、風景画のように瞬間の停止ではなく、風景の上を言葉が移動している間に、いつしか、午後の陽射しが夕暮れている。以上七篇、根底に横たわる主体の思いを手慣れた言葉で精密機械を駆使するように構成せんとした詩群だった。