芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

後藤光治個人詩誌「アビラ4号」を読む。

 この詩誌は、同じ作家が五つの世界を表現した特異な言語集だった。まず第一の世界は、自作の詩を六篇発表し、次にロマン・ロランのガンジー論を解説し、その流れの中で敬愛する清水茂を紹介して、「詩のいずみ」のコーナーでは第二次世界大戦で戦死した詩人竹内浩三の詩を指し示し、最後の第五世界、「鬼の洗濯板」のコーナーでは文化省の教育施策を批判している!

 

 後藤光治個人詩誌「アビラ4号」 編集発行 後藤光治 2020年12月1日発行

 

 この作家の発表した六篇の詩を、三角形の三つの頂点を形成するものとして、私なりに考えてみた。

 第一の頂点は、私説小説的、言い換えれば私固有の具象性から発生する死者の幻影と触れあう次元。この次元を言語化した作品として、「村道」、「北極星」、「カラス」、「松山ん窪」の四篇がある。六篇のうちの四篇。おそらく死と触れあう領域の言語化は、この作家の自家薬籠中の世界、つまり、日常的に接触している世界かも知れない。

 第二の頂点は、宇宙がこの私の生涯をも包んで万物照応する瞬間、過去・未来がこの現在に一体する時間帯の表現の世界と言っていいのだろうか。この次元を作品「星月夜」が背負っている。

 第三の頂点は、互いに共生する次元。既に職業をリタイヤして毎日妻と生活する空間。この共に生きる生活空間を具体的に言語化する作業。これは「カプサイシン」が担っているだろう。

 もちろん、この三つの頂点は同じ人格から広がって行く次元であってみれば、また、一点の人格によって支えられているのは、論を俟たない。さらに言えば、現在の生活を描いた「カプサイシン」を除く他の五篇全体が一篇の詩に合体して、作者の少年時代の望郷詩篇を形成している。

 私は思うのだが、人は、極端に言えば餓死しないためにさまざまな職業でこの世を渡り早死にしなければいつか晩年を迎えると言ってもいいのだが、この間、無数に点滅する時空を具象的に彷徨するのだった。後藤光治という詩人はおそらく教師を生業としてこの世を彷徨してきたのだろう。何故こんなことに言及するのかと言えば、詩作品「北極星」、また、「鬼の洗濯板」に発表された「文化省教育施策批判」を読んでいると、一流の教師をまっとうした人でなければこんな文章はとても書けないからだった。この文化省批判の末尾に近い連を引用して筆を擱く。

 

「最後にもう一度言おう、生き生きとした学校教育を取り戻す道は、実に単純なことで、膨れ上がった校務を整理して、教師が生徒と関わる時間を増やしていく、ただそれだけのことなのだ。」(本書33頁)