芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

ワシレフスカヤの「虹」

 数日前に読んだ「決定版ロシア文学全集第28巻」にこんな作品が収録されていた。

 

 「虹」 ワシレフスカヤ著 原卓也訳 日本ブック・クラブ 1972年10月5日六版

 

 この作品は、第二次世界大戦でドイツ軍に侵略されたウクライナの農村を、赤軍が解放する物語である。農村を占領したドイツ軍がいかに残虐な政策で農民を抑圧したか、その抑圧に屈せずいかに農民は耐え忍んで沈黙の内に反抗を続けたか、ドイツ軍と戦ったパルチザンの兵士達が惨殺されておおよそ一ヶ月後、赤軍の正規軍がいかに周到な計画・進軍によってドイツ軍を粉砕、農民を解放したか、極めてわかりやすく、的確に表現され、ドラマチックに描いて、読者を感動させるに違いない。まるで感動的な戦争文学をテレビドラマで観るようだった。「社会主義リアリズム」の傑作だろう。

 ただ、ポーランドからウクライナに移住して、一九四〇年に共産党に入党、ウクライナのソ同盟最高会議に選出され、おりしも第二次世界大戦中に政治委員・アジテイターとして活躍していた著者には致し方もあるまいが、一九四二年八月からソヴェトの日刊紙「イズベスチア」に連載されたこの「虹」という作品は、極めて政治的なプロパガンダ小説と非難されるかも知れない。

 例えば、周知の通り、ウクライナの状況に関して簡単にざっと言えば、この小説が書かれる十年ほど前から、ソヴェトの集団農業の失政による所謂「ホロドモール」、これはウクライナ語で飢饉によって苦しんで死ぬことを意味するのだろうか、数百万人ないし千数百万人が餓死したとされるが、そして一説によればスターリンによる大粛清・ジェノサイドだ、そう結論されているようなのだが、また、スターリンによるウクライナの政治家の粛清の最中、一九三七年八月三十日にはウクライナ政府の主席人民委員パナース・リェーブチェンコまでが自殺に追いやられている。そればかりではなく、ウクライナのパルチザンはソヴェト側だけでなく、ドイツ側に付いたもの、あるいは、反ソ反独で戦った人々もいた。この小説が表現しているように赤軍は善、ドイツ軍は惡、こう単純に割り切ってしまえるような歴史的状況ではなかった。

 この著者は、ウクライナの農民の原点を、簡潔にこのように述べている。

 

 「大地から生まれ、その大地の上に生きる人々が、自分の血の生命をかけて大地を守るのが、ものの順序なのだ。」(本書393頁)

 「この国の民衆は根強いんですよ。大地から生まれてくるんですもの……」(本書399頁)

 

 著者はウクライナの農民ばかりか、「イズベスチア」の読者に向かって、ロシア文学に頻出する「大地」という崇高な観念によってナチス・ドイツと闘う農民を讃美するのであろう。しかし、その当時のウクライナの言語を絶する地獄的状況を、こんな単純な理屈で飾り付けて物語るのは、いかがなものであろうか?

 この本を閉じた時、私はふと呟いていた、これからは、おそらく、紅組と白組だけで成立するのではなく、もっと徹底した、もっと微細なまなざしを持った「リアリズム」が求められるのかも知れない。