芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

レーニンの「なにをなすべきか?」

 私がこの本を手にしたのはもうずいぶん昔、まだ十代の青年だった。おそらく私の同時代人で若い頃に革命思想に興味を持った方なら、胸に手を当てて思い出して欲しい、あなたもきっとこの書を開いたはずだった。

 

 「なにをなすべきか?」 レーニン著 村田陽一訳 国民文庫 1965年5月15日 第17刷

 

 けれども、最後まで読み切ったか、どうか、それはわからない。というのも、私の場合に限っていえば、今回は最後まで読み切ったが、この文庫本は現在の文庫本のように大きい字ではなく小さい字で297頁あり、そのうえ巻末に人名訳注と事項訳注がさらに細かい字の横書きで43頁付いているのだが、この当時の青年、つまり十代の頃の私のことだが、じっと本の状態を観察してみると、三分の一位を読んで、投げ出した形跡がかすかに認められる。そうだ、眼を閉じて記憶をたどれば、この書は革命運動における修正主義・日和見主義、所謂「経済主義」を徹底批判した論文だが、論文とはいえ読み進むうちにレーニンの熱っぽいアジテーションを傾聴している気持になって、もともと他人を煽動する言葉に余り興味がなくてむしろ不愉快になってしまう私にしてみれば、つい居眠りしてしまって、いつしか本を閉じていたのかも知れない。私は無礼極まりない青年だったと、この歳になって深く反省している。

 内容としては、既にご存じの方が多いのでわざわざ不調法な私の説明など止めてくだされと怒られてしまうが、やはり紙数の都合上とりあえず概略を述べてみれば、革命運動における修正主義・日和見主義、所謂「経済主義」の擁護者たちが主張する、大衆の自然発生性の過大評価とそれへの拝跪、例えば、ある工場でストライキが発生した場合、この争議は雇主と労働者の間の賃金闘争であったり、職場環境の改善のための闘いであったりするのだが、この組合運動を支援する組織作りが最重要課題と主張するのが「経済主義」ではないかと思うが、それに対して、確かにこうした職場単位や地方単位の現場に根付いた組織作りも必要ではあるが、いま、もっとも切実に求められているのは、人民に向かって彼らを政治的にも経済的にも文化的にもさまざまな面で抑圧している政府を打倒すべく宣伝・煽動する意識的指導者の集団、職業革命家の組織、つまり、プロレタリア独裁を目標する「党」を確立しなければ、現場単位の改良はあっても、よしんば若干の賃上げに成功しても、労働者の真の解放は不可能である! レーニンの「なにをなすべきか?」の骨子は、こう表現して大過ないだろうか。心許ない次第ではあるが、とりあえず私なりにわかりやすく概略してみた。

 ただ、注意しなければならないのは、この論文が発表されたのは一九〇二年で、その頃のロシアといえば、ツァーリの専制政治の時代で生産者は封建的な農奴を中心にして徐々に資本主義的な工場おける労働者の成立の途上だった。もちろん、レーニンは常にこの専制政府を転覆するための革命組織の建設を模索したのだった。そして、大衆の自然発生的なストライキやデモなどの個別的な・地方的な闘争では、専制政府を打倒し人民を解放することは出来ない、鍛え抜かれた職業革命家を中軸にした強力な組織の指導によって大衆の自然発生的なエネルギーを権力打倒に向け全国的な規模で結集・集中しなければならない、そういった趣旨を詳細にわたってこの書は論じているのだった。このように見ていくと、憲法を前提とした議会制民主主義を確立している所謂先進資本主義国から未だ社会主義革命が成立していない、ここは、もう一歩深く考えていいのかも知れない。

 話は変わるが、私が生きたわずかな時間の間でも、時代がずいぶん変遷しているのを見つけてしまうのは、鈍感な私でさえ、名状しがたい諸行無常の情調のようなものが心の底から湧きあがってくるものだ。この国民文庫を読んでいて、そんな情調を覚えたのは、本書291頁から297頁までの「解説」だった。この「解説」は一九五三年六月に「国民文庫編集委員会」が書いているが、この年の三月五日にソ連の最高指導者スターリンが逝去している。まだ社会主義者からは本格的にスターリン批判が始まっていなかったのだろう。何だかほとんど偶像崇拝されていたスターリンに接するような文章をタイムカプセルに乗って読んでいる心地が、私にはした。

 

「レーニンの偉大な弟子スターリンは、『なにをなすべきか?』の核心をつかんでいた。彼の名著『党内の意見の相違についての小論』がそれである。」(本書296頁)