芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

カール・マルクスの「フランス語版資本論」を読む。

 思えば、私は二十三歳の時、「資本論全三巻」を必死で、正に文字通り必死になって、頭のデキが悪いクセにそれこそガマンにガマンを重ねてついに読了したのだった。厖大な本なので、より深く理解しようと宇野弘蔵の諸著作を前後して学んだのも、懐かしく、鮮明に記憶している。けれど、やはり頭のデキの悪さは変わらず、もう五十年近い昔の話になってしまって、詳細はスッカリ忘れてしまった。だが、不思議なものだが、その根幹だけは頭の中に根を張ってずっと生き残っている。

 このたび読み終えた本は、私が三十歳の時に出版され、新聞広告を見て、すぐに手もとに置いて以来、いつか読もうと思って、四十年余りの歳月が流れていた。言い訳になるが、丁度その頃、私は亡妻といっしょに商売を初めて身辺あわただしく暮らしていたのか。いや、違う、マルクスや宇野弘蔵からスッカリ心が離れていたのだろう。

 

 「フランス語版資本論」上巻 カール・マルクス著 1979年4月23日初版第2刷

 「フランス語版資本論」下巻 カール・マルクス著 1979年12月10日初版第1刷

 *上下巻とも江夏美千穂/上杉聰彦訳 法政大学出版局

 

 周知の通り、マルクスが生前刊行したのは「資本論」の第一巻だけで、彼の死後、エンゲルスの手によって遺稿が整理され、第二巻(1885年)、第三巻(1894年)が出版された。また、マルクスが刊行した「資本論第一巻」も、一八六七年の第一版、一八七二年の第二版、一八七二年九月から一八七五年十一月までの間に第一シリーズから第九シリーズにわたって分冊されてフランス語版が出版されている。それぞれの版で改稿されていて、今回読んだフランス語版がマルクスの手になって刊行された最終の「資本論第一巻」だった。私は専門家ではないのでどこがどう違うのか、わからない。まして二十三歳の時に読んだ「資本論第一巻」と七十一歳になって読んだフランス語版の「資本論第一巻」を比較検討する能力なんて私にはない。ドイツ語版とフランス語版を緻密に比較検討してそれなりの結論を出し、さらにそこから、マルクスはいったいどんな「定本資本論」を目指していたのかを推論する、日本語訳「資本論」を読了するだけでも四苦八苦で足もとがフラフラした私には、途方もない異次元の話だった。

 さて、やっとこさフランス語版「資本論」を読んで、二十代前半に夢中になってネズミのごとくチュウチュウ食らいついた「資本論」と宇野弘蔵の諸著作、とりわけ宇野の「経済原論」旧版・新版を中心にして学んだことがウッスラよみがえり、楽しい時間を過ごした。

 私がどうこう言うまでもなく、資本主義時代になって、特にイギリスの十九世紀前半に産業資本が確立する過程で、イギリス古典経済学に学びそれを根底から批判した「資本論」が産業資本の構造を明らかにした。また、フランス語版「資本論」を読んで一驚したのだが、執筆された時期直近の資料まで駆使して論を組み立てている天才マルクスの不撓不屈の姿に、思わず私の頭はさがった。

 もちろん「資本論」はさまざまな解説書や研究書が出ているので取り立てて私のような者が口を挟む必要はない。ただ、誰かに「資本論って何が書いてあるの?」と質問された場合、私なりにこんなふうにわかりやすく答えようと思っている、当然、独断と偏見に過ぎないかも知れないけれど。

 さて、宇野弘蔵も言及しているとおり、当たり前の話だが、かつて奴隷所有者が奴隷を所有するのは、奴隷が一日働けば、基本的には、自分の衣食住、いわゆる生活手段以上のものを生産する。そうでなければ、奴隷所有者は奴隷なんて所有しなかったろう。また、中世、封建領主は農奴から貢租を取り立て、あるいは自分の領地で年に何ヶ月か役務を強制しているが、これもまた明らかに人間は一日働けば自分の生活手段以上のものを生産する、そういった人間労働の特異性の上に、奴隷所有者は奴隷から、封建領主は農奴から彼らの剰余生産物を収奪する社会体制を維持したのだった。そして、この民衆から収奪されたものを土台にして領主から騎士や役人や学者や芸術家までが生活し彼らそれぞれ特有の社会活動や文化活動をするのだった。例えば、エジプトに旅行してアブシンベルの神殿を観光するだけでも、大体その共同体の在り方は見当が付くだろう。そうじゃないですか?

 そこで、資本主義社会はどんな体制を維持・再生産しているのだろうか? マルクスは「資本論第一巻」でこう主張する、建物や什器・機械類や原料などの生産手段と労務費を所有する資本家と生産手段は所有しないが自分の体を所有する労働者との二つの階級が、日々維持・再生産されている、と。労働者の特徴は、基本的に、生産手段を所有しない無産者であり、自分の労働力を資本家に商品として売って賃金を獲得して消費生活をし、仕事場では資本家ないしその代理人が指示した労働に従事するのだった。もちろん、人間が一日働いたら自分の生活手段を超えて剰余生産物を生産しないなら、資本家や企業が労働者を雇用する必要はないだろう。そうじゃないだろうか? ここから先の精密な分析は、ぜひ「資本論」を読んでご自分の頭で確かめていただきたい。

 今回、改めてフランス語版「資本論」を読んで、価値論や資本の生産過程もさることながら、わんさか資料が出てきて読み進むのにトテモ骨を折ったが、「第七篇 資本の蓄積」と「第八篇 本源的蓄積」が面白かった。もう歳のせいだろうか、私はこういう現実の具象的世界が面白くなってしまった。面白いといっては極めて語弊がある。ハッキリ言おう。人間に絶望した。とんでもない生命体だと、奈落に突き落とされた気がした。資本主義成立過程で数知れぬ民衆が犠牲にされた。ほとんどそれは民衆の虐殺劇だった。