芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

清家忠志の「神は種まく」

 この小説は、ネットの哲学・思想カテゴリーの掲示板で出会った男ふたりの、敢えて言えば、宗教哲学的友情物語である。

 

 「神は種まく」 清家忠志 「文脈」第149号収録 2018年7月発行

 

 開設して十年ほどになるネットの掲示板の交流は、二年に一度、東京でオフ会があり、男ふたりは実際に何度か会って友情を深める。そして、一方の東京に在住している男が神秘主義を語る中で、「宇宙は私なのです」、だから、「私は死にません、死にようがないんです。もちろん肉体はなくなりますが・・これは私の預言です」(本書4頁)

 こう語った東京の男は、肺ガンで亡くなる。後日、彼の保存データーの中に小説が遺されていて、その小説をもう一方の男に、その名は村木というのだが、死んだ男の恋人から電子メールで送られてくる。

 村木はパソコンを開く。こうして、遺書めいた小説の世界が始まる。

 さて、小説は、紀元前九百年頃から八百年頃の旧約聖書における「王」と「預言者」を中心にして動く歴史的世界を描いているのだが、転々と変化する時の流れが書かれていて、実際に読んで戴く以外、説明のしようがない。また、私自身、旧約聖書に精通しているわけではなく、力不足は否めない。ただ、最後に至って、ヨラム王の母、イスラエルの主ヤハウェではなく異教の神バアルにつかえるイゼベルは、部下のクーデターにあい、預言者エリヤの預言通り、「糞土のように野のおもてに捨てられ」る。(本書26頁)

 この小説が終わると、村木と彼の妻の会話が始まるのだが、興味深い話が出てくる。例えば、預言者にも本物の預言者と偽物の預言者がいる。本物の預言者は神の言葉を語るので必ず実現されるが、偽物の預言者が語るのは人間の言葉に過ぎないので偶には実現されることもあるが、ほとんどはただの言表だけで終わる。従って、本物の預言は必然であり、偽物の預言は偶然である、と。

 それはともかく、「宇宙は私である」という東京の男の預言通り、神の否定者・反逆者でさえ、神は彼等を糞土として野のおもてに撒き散らし、宇宙との合一を果たす。一個の種になる。反逆者であっても死ぬことが出来ないのだ・・・「神は種まく」という小説はそういった自由な解釈まで許す、不思議な小説である。