芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

プリーモ・レーヴィの「休戦」

 「出発したときは六百五十人いた私たちが、帰りには三人になっていた」(本書352頁)。いったい二年にも及ぶこの旅はどのような日程だったのか? どのような施設への旅だったのか? そして、また、何故このような旅に出かけたのか?

 施設に関して言えば、もちろん、言うまでもなく、アウシュヴィッツ収容所へのナチスドイツに強制された死の旅、「取り返しがつかない決定的な悪」(本書343頁)が露骨に、むき出しになった、人間という存在の絶滅収容所だった。人間をノミやシラミやネズミとして殺虫剤で破壊した絶滅収容所に関しては、著者の前著「これが人間か」(朝日文庫)に詳しい。

 本書は、一九四五年一月にソビエト軍によってアウシュヴィッツから解放された著者が、その後、彼の自宅、イタリアのトリーノに帰還するまでの九ヶ月にわたる特異な旅行記である。

 

 「休戦」 プリーモ・レーヴィ作 竹山博英訳 岩波文庫 2010年9月16日第一刷

 

 この旅の間で、アウシュヴィッツという人間であることを絶対否定された闇から、トリーノの自宅という人間を肯定する光に向かって浮上していく自分の姿を著者は精密に描写している。また、闇から明るみへ出て行く同行のさまざまな人間の姿が、精度の高い陰影の中で、美しく、時に崇高に、輝いている。

 ただ、本書の扉に書かれた著者の詩句を、この作品の最終連で解説しているのだが、それによれば、トリーノの自宅に帰って、著者はこんな夢を見るようになった。……家族と共に生活をし、友人たちと共に食卓についたりするのだが、やがてすべてが溶解し、「私は濁った灰色の無の中にただ一人でいる」(本書355頁)。そして、この夢の結末はこうだ。少し長いが、大切なところと思われるので、引用しておく。

 

 「私はまたラーゲルにいて、ラーゲル以外は何ものも真実ではないのだ。それ以外のものは短い休暇、錯覚、夢でしかない。家庭も、花咲く自然も、家も。こうして夢全体が、平和の夢が終わってしまう。するとまだ冷たく続いている、それを包む別の夢の中で、よく知っている、ある声が響くのが聞こえる。尊大さなどない、短くて、静かな、ただ一つの言葉。それはアウシュヴィッツの朝を告げる命令の言葉、びくびくと待っていなければならない、外国の言葉だ。「フスターヴァチ」、さあ、起きるのだ。」(本書356頁)

 

 訳注で、「フスターヴァチ」とはポーランド語で「起床」の意味(本書357頁)、とある。だとすれば、自宅に帰還しても、著者プリーモ・レーヴィから決してアウシュヴィッツは消えていないのだ。はたして、時とともに、著者からアウシュヴィッツは消滅するのだろうか? 世の人が言うように、いかなる悲惨も時間が解決するのだろうか? 著者は一九八七年に自死するのだが、これが解決だと言っていいのだろうか?