この本はおそらく、十代の時に読んだ人が多いだろう。感受性豊かだと言われている「青春時代」に読んでこそ、心に残る一冊になるのだろう。だが、ボクはこの歳になって、すなわち七十歳になって、初めてこの本の扉を開いた。
「アンネの日記」 アンネ・フランク著 深町眞理子訳 文春文庫 2003年4月10日第一刷
第二次世界大戦の折、ヒトラーを中心とするナチスドイツがユダヤ人を虐殺したのは周知の事実だが、彼等の弾圧を避けて、アムステルダム市のプリンセンフラハト二六三番地の事務所建物内に<隠れ家>を作り、アンネたちユダヤ人八人が潜伏生活を送ったのは、一九四二年から一九四四年に至る二年余りだった。
この書は、その間の<隠れ家>生活を描写しているばかりではなく、著者のアンネが十三歳から十五歳までの不自由な隠れ家生活で育んだ夢や将来の希望や、また、少女の心から湧き上がる欲望や葛藤をとても透明なタッチで書かれた日記である。
この日記はこんな書き出しから始まる。
「一九四二年六月十二日
あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話しできそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね。」(本書14頁)
そして、アンネの日記は一九四四年八月一日、この言葉で終わっている。
「そしてなおも模索しつづけるのです、わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるのかを。きっとそうなれるはずなんです、もしも……この世に生きているのがわたしひとりであったならば。
じゃあまた、アンネ・M・フランクより(本書582頁)
この日記を書いた三日後、一九四四年八月四日、密告者の通報によってアンネたち八人はドイツ秘密警察に逮捕される。同時に、アンネたちの潜伏生活を支援していたオランダ人二名も逮捕される。つまり、ドイツに占領されてナチス化を強いられたオランダ人にあって、迫害されたユダヤ人救済のために身命を賭して活動していたオランダ人が少なからずいた。
一九四四年九月六日、アンネたちはアウシュヴィッツ強制収容所に送還され、その後、アンネは姉マルゴーとともに極めて衛生状態が悪いベルゲン=ベルゼン強制収容所に収容されて、一九四五年二月末から三月初めにかけて収容所内に流行したチフスでまず姉マルゴーが死亡し、アンネもその後を追いかけるようにこの世を去った。強制収容所から生還できたのはただひとり、アンネの父、オットー・フランクだけだった。そして彼が、運よく残されていたアンネの日記を出版し、彼女は言葉になってこの世によみがえる。
ボクラ、昭和天皇を中心にした日本人はヒトラーを中心にしたドイツと同盟を結び、第二次世界大戦を連合軍に対して、ともに戦った仲間である。確か、ヒトラーやローゼンベルクは日本人を「東洋のプロイセン人」と呼んだのではなかったか(「ルカーチ著作集第13巻」白水社刊、416頁参照)。「アウシュヴィッツ」はボクラ日本人と決して無縁ではない。