芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「般若経」を読む。

 母方の祖母はよく般若心経を誦していた。まだ若い頃に祖父、つまり彼女の夫が行方不明になったことが影響していたのだろうか。祖父は戦前、政治犯等を調査する外事課に勤務していて、満州で変装している姿を見かけたという噂もあったが、そのまま帰らぬ人となった。

 しかし母はお経にはまったく無関心だった。母は生来ワガママで、その気質をボクも受け継いでしまったが、それはさておき、自分の好きなことにチャレンジして生活を楽しんでいた。生きている時間を苦の世界だと観じる仏教などに一向興味を持たず、祖母のとなえるお経とは無縁だった。

 母が般若心経を誦するようになったのは、五十八歳で早くこの世を去った父の仏前に坐して手をあわせた時からだった。初めは経典を読んでいたが、毎日のことで、そのうち空でとなえていた。真言宗だったので、最後に南無大師遍照金剛を連呼していた姿が、母もまたこの世を去った今となっては、懐かしい。

 ところで、ひょっとしたら、ここにはお経の深い意味があるのでは、ボクはそんな思いを抱くようになってきた。ボクがこの本を熟読し始めた時、妻の三年目の命日が来ていた。

 

 「般若経」 平井俊榮訳注 ちくま学芸文庫

 

 この本には、「般若心経」、「金剛般若経」、それに「大品般若経」の九十品の中から五品、「習応品」、「大明品」、「随喜品」、「薩陀波崙品」、「曇無竭品」、以上が収録されている。

 ボクは思うのだが、先にもちょっと触れたけれど、仏教も宗教であって所謂人文科学や自然科学ではなく、信仰である。では、いったい何を信じるのか。それはまず、この世が苦の世界だと信じるのだろう。ボクの母はもともとこの世を楽の世界だと思い、楽を探し求めて生きていたのだった。ところが、朝出かけるときは元気だった夫が夜には冷たくなって帰宅した。その時、突然、世界は一転する。彼女の心の中に苦がやってきて、じっとつかんで離さなくなった。

 

 照見五蘊皆空、度一切苦厄。(13頁)

 

 訳 (存在を構成している)五つの集まりは、すべてが空(実体のないこと)であることを見極め、あらゆる苦悩や災厄を克服した。(15頁)

 

 これが「般若心経」のエッセンスだろう。苦はどこからやって来るのか。五蘊からやって来る。色・受・想・行・識の五蘊のことだが、簡単に言えば、あらゆる物質的な存在、あらゆる精神的な働きから苦がやって来る。しかし、これら一切は実体がなく空であるから、苦の世界を解脱して安らかにこの世を生きていくことが出来る。そのために、では、どうすればいいのか。

 それはすなわち、般若経を聞き、信じ、書写し、記憶し、読誦し、供養し礼拝し、他人のために説く、これ以上でもこれ以下でもない。極めて謙虚であり、静かな、寂滅といっていい世界に住むことである。他人のために説くといっても、ほとんどが、祖先や愛別離苦で死別した、いわゆる「仏さん」に向かって読経するのだろう。祖母がやっていたように、父の死後、母もまたやっていたように。

 もっと色々書こうと思ったが、これくらいで筆をおく。「般若経」は紀元前百年くらいから千年にわたってさまざまに書き継がれた厖大な経典で、この度、「大品般若経」の一部、五品を精読できたことに心から感謝したい。薩陀波崙菩薩の物語を再読三読して、詳細は是非お読みいただくことにして、大昔、身を捨ててまで菩薩道を求める人がいたのだと思うと、涙ぐましくなる。命という存在。空であって、空ならざるもの。生きとし生けるものとして、この世に仮に住まいしている事実に、合掌したい。