芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

こんな時間もありました

 小料理屋のカウンターに二人並んで座って、マユロンは生ビール、Mは日本酒を飲みながら、一ヶ月会わなかった時間を埋めるように、まくしたてているのだった。カウンターの中に立っている六十代のシェフは笑いをこらえて、包丁を握りしめて。

 

M よせばいいのに、そう思っていたけど。やはり、思いっきし反対すればよかった。いまになって、後悔しても始まらないけれど。万事休す? そうかい。ならば、もうおしゃべりするのは止そう。いつ刑は執行されるの? もうすぐじゃないか。会えなくなってしまうネ。でもネ、彼は君のこと、決して忘れないよ。お店の常連で君が好きでよくしてくれたと思うけど、深い交際じゃアなかったから、マユロンの方はそんな男、五年も待つなんてこと、とてもできないと思うけど。

 その男の傷害事件はそれとして、最初のご主人とのいきさつ、ちょっと話してよ。

 

マユロン ネエ、聞いて。だって許せなかったの。わたし、若かったのネ。十九で男の子、二十一で女の子、あんな男の精子で産んだんだから。でもあの男、子供たちには優しいと思ってた。それに彼が働いて、わたしはお家で毎日家事をやって。一円も稼がないで、彼のお金で生きているので、怒られても、殴られても、仕方ないって思ってた。わたしがどこか悪いんだろう、いつも反省ばかりしてたの。いくら考えても、どこが悪いのか、わからなかったけど。毎日、あなた、ごめんねって、こんなわたしで……台所の椅子に座って、一人、つぶやいてた。

 

M マユロン、それはないよ。いくらなんでも、しょっちゅう殴ってばかりいるなんて、ボクには考えられない。ここが悪いと、ここを変えて欲しいと、言えばいいじゃん。それをしないで、いきなり手を出すなんて、ボクには信じられない。そんなの、サイテーじゃないか。ボクはワイフと四十三年間、ずっと愛しあってたよ。手をあげたことなんて一度もない。手をあげたら、殴る前に、彼女の平手打ちを食らったと思う。

 

マユロン 奥さん、何でなくなったの。

 

M 膵臓がん。自覚症状が出た時は、もう末期。それまではとても元気で五月になっても旅行したりゴルフを一緒に回ってた。わかってから一か月余り、七月十九日にサヨナラ。あれから十一年になる。最後の日まで恋人同士みたいに愛しあってた。それだけが、ボクの悲しい喜び。

 

マユロン 膵臓がんカア。見えないガン、暗黒のガン、このガン、四期になるまでわからないんでしょ。

 

M まるで事故にあったよう、突然死…………

 

マユロン わたし、まだ二十歳前後で、何も知らなかった。いい人だとばかり、思ってた。いまなら、わたし、悪いことなんてこれっぽっちもしてないって、わかったわ。でもあの時は、わからなかった。結局ネ、あの男と別れたわけは、こうなの。こんなこと、あったの。彼が恐い顔して私に向かって投げつけた茶碗が跳ね返って、隣にいた娘に当たった。娘の唇から血が流れていた。もうダメ。許せなかった。わたし、子供たちを連れて、家を出た。あの男とは二度と会っていない。わたし一人だけど、それ以来、二十三歳からきょうまで、夜はスナックをやり続けて、昼はお寿司屋さんのアルバイトして、暮らしているの。大変だけど、幸せ。あの男と別れて、幸せ。一人になって、よかった。いつも娘と向き合って、愛しあって生きてる。

 

M いまから、マユロンのお店で、飲み明かそう。夜明けがやって来るまで。人さまざま、いろんな分かれ道。マユロン。ステキな人生、ボクの知らなかった物語、ありがとう、言いにくいこと、いっぱい、話してくれて。

 

マユロン Mって、飲んでると、ほとんど食べないね。わたしもそうだけど。ホラ、てっさも少し残ってる。揚げ物なんて手つかず。もったいないから、子供たちに、持って帰る。