芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「ブッダのことば」

 意外ではあるが、この書には慈悲への言及が極めて少ない。慈悲を主題にしているのは、本書の33頁から34頁にかけて、「第一 蛇の章、八、慈しみ」だけである。まだこの頃、覚者(仏)の慈悲というはっきりした考え方はなく、世間で行われている慈悲を観察して覚者の立場からものがたっているに過ぎないのだろう。一部を引用してみる。

「あたかも、母が己が独り子を身命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし。<中略>。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。」

 

 「ブッダのことばースッタニパーター」中村元訳、岩波文庫。昭和44年4月30日第13刷。

 

 ボクはこの本を二十歳の時に読んだ。一読して、奇妙な本だ、そんな印象を持った。妻子も王族の地位も捨ててこの世から出離したブッダの言葉だから、当たり前だといえばそれまでだが、一行目から最終行までほとんどの行は、さまざまな煩悩とそれへの愛執から解脱して、安らかに生きる境界を語っている。その境界は、この世の楽でもなく苦でもなく、楽も苦もあわせて捨て去り、この世の快でもなく不快でもなく、快も不快もふたつながらに捨て去って、生への執着も死への恐怖も蛇が古い皮を脱ぎ捨てるように捨て去った、無一物の安らぎにある。

 中村元の解説によると、本書の原題は「スッタニパータ」といわれ、スッタは「たていと」「経」、ニパータは「集成」。紀元前383年頃、ゴータマ・ブッダが逝去し、その後、弟子がマガダ語の経典を作り、それが現在伝わっているパーリ語に訳された。アショーカ王(約西紀前268年~232年)以前にパーリ語聖典は成立しているだろう。全五章のうち、第四章、第五章は特に古い。ひょっとしてブッダの言葉そのままが書写されている可能性がある。

 ブッダという人は、おそらくニルヴァーナへの道を誰にでも理解できるようにその人の能力に応じて優しく語りかけた人だ。身分は一切問わず、ニルヴァーナへの道はあらゆる人に開かれていて、この道を究めた人が覚者、すなわち仏である。

 言うまでもなく、ブッダは究極の道を行ずる人、いわゆる宗教家ではあるが、同時にまた、すばらしい詩人でもある。例えば、この一文を読んでいただきたい。なんの根拠もないが、ボクの直感で、この言葉は実際にブッダが語った言葉を書写していると、ボクは確信する。何故なら、この言葉はこの世を突き抜けている。

 

「たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火の)数には入らないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者の)数に入らないのである。」

<中略>

「滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである。」

<中略>

「いかなる所有もなく、執着して取ることがないことーこれが島(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死の消滅である。」(188頁~193頁)