芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

源信の「往生要集」

 

 空海はその主著「秘密曼荼羅十住心論」で、十章ある十住心の第一章、第一住心を「異生羝羊住心」と規定している。異生とは凡夫、羝羊は雄羊。性欲と食欲のおもむくままに生きている生命体(人間)を宗教哲学的に分析している。従って、分析は、この生命体の心に存在する「地獄」から始まる。

 さて、源信の「往生要集」も全十章で構成され、その第一章は「厭離穢土」、即ち、言うまでもなく「地獄」から始まる。源信の場合、空海より更にナマナマしく絵画的に表現された地獄である。これは偶然かもしれないが、ダンテの「神曲」も地獄から始まる。ひょっとしたら、人間という特殊な生命体を宗教哲学的に考究した場合、人間固有の地獄的本質をいかに超越するか、これがもっとも大きな主題のひとつなのかもしれない。

 もう四十年以上も昔、ボクが二十歳前後のとき、西宮図書館で源信の「往生要集」を読んだ。だが、読んだといっても、大文第一の「厭離穢土」を読み、次の大文第二の「欣求浄土」に至って、後はペラペラと頁を繰って、本を閉じた。地獄のスサマジイ描写を楽しんだだけで、はなはだ浅薄な若造だった。単なるお化け趣味だったのか。

 

 「往生要集」 源信著 石田瑞麿訳注 岩波文庫全二冊

 

 この本の書評を書く力はボクにはない。また、多くの研究書が出版されていると思う。それはさておき、感銘した二個所だけ、引用したい。善導の文である。善導に関しては周知のとおり、法然は「選択本願念仏集」であたかも化身仏のごとく表現しているし、また、親鸞の「教行信証」にもしばしば言及されている。もちろん「歎異抄」にも善導に関して有名な発言もある。ボクはすばらしい文章家だと感心していたが、今回、「往生要集」の中で、源信が善導の文の取意を書いている。その美しい原文を訳者の石田瑞麿氏が補注に紹介している。

 一つは、二種の深信を明らかにしている文。ボクは無知・無学・無宗教ではあるが、ここでは浄土思想が聖なるものを端的に表現していると思う。まず、源信の言葉から。

 

「二に深心とは、謂く、自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転し、いまだ火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願、及び名号を称すること下十声・一声等に至るまで、定んで往生することを得と信知して、乃至、一念も疑心あることなきなり。(上巻259頁)

 

 善導はこう表現する。

 

「二者深心。言深心者、即是深信之心也。亦有二種。一者決定深信自身現是罪悪生死凡夫、曠劫巳来常没常流転無有出離之縁。二者決定深信彼阿弥陀仏四十八願摂受衆生、無疑無慮、乗彼願力定得往生。(上巻392頁)

 

 二つは、善導の観無量寿経疏巻一、玄義分から。まず、源信の取意。

 

「また観経の善導禅師の玄義には、大小乗の方便以前の凡夫を以て九品の位に判じ、諸師の所判の深高なるを許さず。」(下巻154頁)

 

善導の文。

 

「看此観経定善及三輩上下文意、総是仏去後五濁凡夫、但以遇縁有異、致令九品差別。何者、上品三人是遇大凡夫、中品三人是遇小凡夫、下品三人是遇悪凡夫。以悪業故臨終籍善、乗仏願力、乃得往生、到彼華開方始発心。」(下巻266頁)

 

 これは、世俗の論理で判断すれば、われわれ凡夫を偉い凡夫、中くらいの凡夫、ダメな凡夫のようにさまざまに差別するが、宗教の論理で判断すれば、われわれはすべて「凡夫」という絶対平等の生きとし生けるものであり、たまたま縁あってこの世では差別された姿で流転している。弥陀の本願はすべての凡夫を取って離さず、必ず浄土に往生せしめるであろう。

 

 ところで、なぜ無宗教のボクがこういった本を読んでいるのだろう。浄土思想には、倶会一処という言葉がある。浄土に往生すれば、この世で愛し合ったものが来世でももう一度会うことが出来る。ボクはここ数ヶ月をかけて、「浄土三部経」、源信の「往生要集」、法然の「選択本願念仏集」、親鸞の「教行信証」を読んだ。日本浄土思想の根源を表現した代表的な書物である。きょうは七月九日。十日後、七月十九日は、ボクのワイフの三年目の命日である。