午前零時を過ぎていた。深夜のスナック。狭いコの字型に曲がったソファー。小さなテーブルを囲んで、三人の男女がおしゃべりに夢中になっている。しばしMだけ沈黙して、唇にグラスを傾けた。あとの二人の男女は酔眼でよろめきつつたがいの思いを語りあっている、そんな彼等の自分史にうなずきながらMは耳を傾けて。
カケヤン 確かにね、わたしはもう七十を半ば過ぎてしまったが、まだ妻とは愛しあっている。愛の快感って生きているもっとも大きな楽しみじゃないだろうか。それを失えば、長生きするのもどうだろう、どっと色褪せてしまうんじゃないか。長寿化社会が楽しみを失って荒廃してゆく気がする。ねえ、ユミロン、どう思う?
ユミロン そうね。あたし、まだ、五十代だから、そこんとこ、はっきりしないけど。でも、ずっと独身だったけど……けど……けど、男がいなかったら悲惨な生活だなんて、これっぽっちも感じたことってないんだけど。結局、人それぞれ、みたい。じゃ、ない?
カケヤン まあ、いいか。それはそうと、実は、こんな夜遊びがずっと出来るようにわたしはトレードをやってるんだ。年金だけじゃ、ここで、午前様まで、飲んだり食ったりするなんてとても不可能。トレード、知ってる?
ユミロン なに、それ? あたし、知らない。教えて。
カケヤン まあ、わかりやすくいえば、金融商品の売買で稼ぐ事さ。特に、先物取引って、危ない橋だけど、凄い世界。これに精通するためには、お勉強しなきゃあ。わたしも始めたころ、五千万円以上損したよ。おかげで芦屋の家を売り払って宝塚の山奥に引っ込んだんだ。二十年前にはこの芦屋駅の近辺で住んでいたんだが……いまじゃ、儲けているよ。妻と愛しあうのとトレードだけは、絶対、止められない。快感。夢中になって。楽しく生きなきゃ。ユミロンは何を楽しんでいるの?
ユミロン ヨガ。毎朝、六時から八時まで二時間、ヨガ道場に通ってるの。それをやってから三十二年間お勤めしている職場へ出勤。道場には週に六日行ってるわ。毎日だとやはり大変。一日だけぼんやりするの。
M ボクも昔、バラモン経典、たとえばバガヴァッド・ギーターなんて読んでみたけど、ヨガの実践はしなかった。読書だけ。大宇宙と小宇宙の合一、その法悦、全身恍惚として、この世の嫌なこと、すべてが消えてゆく、つまり生老病死の四苦を解脱して無の法悦の世界へ……そんな修行、してるの?
ユミロン 瞑想。瞑想よ。バガヴァッド・ギーターは読んでると眠たくなって、首から上、コックリさん。でもヨーガ・スートラはわかりやすくて、ずんずん頭に入っていくわ。毎朝、道場でやってるのは、もう一度言っとく、瞑想。そしてこんなに長い間やって来たけど、まだ頭の中に雑念が侵入してくるの。おかしいでしょ。でも男より、瞑想の方が好き。おかしい?
M いいじゃん。この人が好き、そんな男がいなきゃ、言い寄って来る男なんて全員無視すれば。この世で一番好きな瞑想を愛し続けたら、いい。ステキ。そう思う。一番好きなことをずっと大切にして。これからも、生きてゆく。ずっと。もっと。
ユミロン もうひとつ、あたし、やりたいことあるの。両親が離婚した時、あたし母に付いたの。それからいままで母と二人暮らし。まだ元気だけど、亡くなったら芦屋を離れようと思ってる。この町、生まれた時から五十年余り住んで、平坦な感じがして、飽きてしまった。もっと激しい自然と一体になった町、松本なんて、いいと思わない。札幌はにぎやかすぎるし、だったら小樽か旭川なんて、どう?
カケヤン お話し中ご免。もうすぐ妻が車で迎えにやって来る。そろそろ引き上げる潮時か。いつも妻が迎えに来るんだ。今夜は楽しかった。またいっしょに飲もうね。じゃあ、失敬。おやすみ。
ユミロン あら、もう二時になってしまう。あたしも帰る。毎日十時ごろまでには寝ることにしてるの。朝のヨガのために。でも、お酒にひたる金曜日の夜は別だけど。
M ユミロン、タクシーで送るよ。ママ、タクシー、呼んで。