芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

長谷川博之と「空のいろ」

僕が長谷川博之の文章を読んだのは、快傑ハリマオ6号(2011年2月20日発行)で二度目だ。一度目は同じ雑誌の第2号で「瀬沼孝彰の詩業」を読んだ。しかし僕は瀬沼孝彰の詩を読んだこともないし、ましてそれを論じた長谷川博之の視点をどうのこうのという能力もない。

さて、今回の「アルバイトと空のいろ」という作品だが、これは彼が社会人になるまでの話。いや、さらに正確に言えば、東京農大を卒業して、就職して、学生時代のアルバイトと同じように、三日坊主で退職した思い出まで。そして、自分はいつでも三日坊主で人生の闇を歩いているのに、その時見上げた空は青空だったこと。この作品から推論すれば、結局、彼は自分がこの世に対して無知な人間だと告白しているようなものだと思うのだが、そしてその無知故に同時にまた空を見上げ空のいろを見つめてしまうのだと。この間の消息は長谷川博之自身に訊いてみないとわからないが、おそらくこの世への無知が深ければ深いほど、空のいろはいつも青いのかも知れない。

快傑ハリマオ6号には長谷川博之の他に、田中エリス「二0一0年、私のクリパ」という聖なる時、聖なる場所へ接近せんと意志する作品、松岡祥男「北川透徹底批判ほか(ニャンニャン裏通り・出前版6)」、残念ながら僕は北川透に関して言えば思潮社の現代詩文庫48北川透詩集を昔読んだだけでその他の作品も読んだかどうか記憶にないが、過激で饒舌な作品を書く人だとそんな印象が残っているので、きっと社会の底辺で抑圧されて不如意な生活を送っているのだなとばかり思っていたが、まさか学問の府である大学の先生なのだとは、この松岡の作品で初めて教えられたのだが。ごめんなさい。つまりまあ僕のような退化物質にはいやはや。それから浜田順二「あの頃からのボク、俺、私」。ケンカが強そうで下手に口出しできそうにない、覚悟が出来たら後日に感想を。編集後記では今回出る幕がなかった根石吉久は次号で「自分特集」をやっちゃおうと思っています御期待。