芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

サイゴン

2011.3.8(火)。
関西国際空港10:30発ベトナム航空VN-941。
ホーチミン市・タンソンニャット国際空港現地時間14:20着。

ホーチミン市は人口約800万人の都市。タイのバンコクでもそうだが、ホーチミン市に入ってまず驚かされるのがバイクの多さ。この市だけで約400万台が走っている。バイクのメーカーはホンダが三割強の最大のシェアを持っていて、全体に日本製が主流。日本製バイクの値段は10万円位で、中国製のバイクは2万円から2万5千円位だが、故障が少ない日本製がベトナムでは支持されている。ちなみに乗用車はトヨタが多く、バスはヒュンダイが主流のようだ。2007年12月15日からバイクでのヘルメット着用が義務づけられている。

1975.5.1。
サイゴンがホーチミン市に改名。

19世紀末に建てられた赤レンガ造りのサイゴン大教会(聖母マリア教会)、通りをへだてたすぐ横にやはり19世紀末に建てられた中央郵便局がある。フランス統治時代の建物だから、この辺りには、フランス世紀末の不思議にあでやかな匂いが漂っている。
日本の無条件降伏後、フランスがベトナムを再び侵略するのだが、周知の通り、ホーチミンたちの抵抗が始まる。そして悪夢が来た。

1954.5.7。
ディエンビエンフーの戦いで、フランス軍敗北。おおよそ2200人が戦死。1万人以上が捕虜となった。ベトナム民主共和国人民軍にも約8000人の戦死者が。

宿泊したソフィテル・プラザ・サイゴンの18階には屋外プールがある。その夜、僕と家内とS氏の三人で、サイゴンの夜空の下で、暗い水上を泳いだ。プールサイドの白い木製のデッキチェアには、二人のフランス人カップルが寝そべっている。

2011.3.9(水)。
ホテルからミトーへ。サイゴン川支流をデルタ地帯に向かって。川は泥水で淀んでいるのか流れているのかほとんど判然しない。僕らを乗せたバスは高速道路を走り、この道路は日本のODAで建設されたのだが、やがてデルタ地帯の狭い通りを抜けていく。ガイドの話では、ミトーの女性は美人が多く、各地から結婚をしたいお金持ちの男たちがこの地を訪ねるらしい。ミトーでは養蜂がさかんで、どうやらこの地方の女性はローヤルゼリーで毎日洗顔するので、肌がつるつるしてとても美しいのである。

赤い粘土で撹乱したようなメコン川を小さな遊覧船で渡り、タイソン島で丸木舟に乗り換えジャングルクルーズに。その丸木舟に乗船する前に日本語が上手でかつては美人だった現地の女性ガイドが養蜂見学に連れて行き、その後ローヤルゼリーの売り場へ案内してくれるのだった。

午後、ホーチミン市に帰り、統一会堂(旧大統領官邸)に行く。大小100以上の部屋があり、3階バルコニーにはヘリポートまであって、また、大統領の図書室の後ろの壁から地下への脱出口がある。空襲があれば地下へ逃げるらしい。地下には大統領の司令室やUSAと連絡をとりあった放送局まである。先ほどの3階には大統領の家族のための娯楽室や小さな映画館まであった。4階はバーがあって、ちょっとしたステージ付きのダンスホール。もちろん、2階にはグエン・カオ・キの応接室も。

1975.3.10。北ベトナム軍全面攻撃(いわゆるホー・チ・ミン作戦)
1975.4.30。サイゴン陥落。南ベトナム崩壊。

ガイドの話では、陥落する一ヶ月ほど前にグエン・バン・チュー大統領はUSAに亡命していたんだって。彼は2001年9月29日にマサチューセッツ州ニュートンで死去。

グエン・カオ・キについても一言。サイゴン陥落前に彼が米軍のヘリコプターで「ブルー・リッジ」に向かい、そのままUSAに亡命したって、まだ覚えている人もいるかもしれない。彼はその後、カリフォルニア州の「リトル・サイゴン」で事業に成功。香港にも支店を持って。1995年8月5日ベトナム社会主義共和国とUSAの国交回復後、2004年1月、約30年ぶりでベトナムの土を踏んだんだって。

今夜もホテルの18階の屋外プールで、僕と家内とS氏は黒い水面を泳いだ。プールサイドのテーブルで、フランス人のカップルが談笑していた。