芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

冬の真夏日

 余程嫌われているのだろう。ほとんど哀れというほかなかった。だからこの二年間、彼は毎日自分に向かって、おまえはとても哀れな奴だ、何度も言い聞かせ続けてきた。また、こうでもしなければ、JRの線路に寝転ぶか、ビルの屋上から飛び降りたであろう。

 そうじゃないだろうか。人は自分を哀れな奴だとさげすむことで、その日を何とか生き延びていくことだってあるんじゃないか。おまえは最低のニンゲンだ、そうつぶやくことによって、何とかその日をしのぐことが。

 十二月の中旬だというのに、十月からずっと初夏のような天気だった。突然、真夏日さえやって来た。昼間、営業で外回りをしていると背中がじっとり汗ばんでくる。何の成果も出せず帰社する道すがら、もう哀れを越して悲惨だった。頭の中に汗がネットリ溜まっている気持がした。

 異常気象なのだろう。毎日、ゴキブリの姿を見た。五十を過ぎても独身の彼は一人住まい。黒褐色の楕円形の虫を見かけるたび、スリッパを振りかざし、それを叩き潰すのだった。少なくとも一日に一匹は潰した。多い時には三匹潰すこともあった。

 よその家では実際どうなのだろう。やはり毎日家じゅうゴキブリが駆けずり回っているのだろうか。近所付き合いがまったくない彼には知るすべもなかった。いったいこの異常気象はいつまで続くのだろう。

 年を越して、二月になってからも夏日が続いている。彼は自問自答した。これは我が家だけの出来事ではあるまい。社会全体の出来事、いや、そこまで考えなくっても、ご近所すべての家で毎日ゴキブリが出没し、スリッパで叩いたり、殺虫剤をまき散らしているはずだ。あるいは、いつの間にか面倒になって、あきらめたすきに、どんどん増えていくのにまかせているのだろう。食事の際でも、食卓の上をゴソゴソ数十匹這いずり回っているのかもしれない。

 そういえば、ゴキブリを加工して食用にする話を耳にした。政府も異常気象とそれが及ぼす食糧難への対策のひとつにしているのだろう。ネットでこんなニュースを見て愕然とした。五百キロほど南下した地方では毎日が猛暑日で、ゴキブリが大量発生しているようだ。深夜、酔っぱらって帰宅途上、路地裏で何万匹ものゴキブリに襲われて全身を覆われ窒息死した事件があったそうだ。それ以来夜間は外出禁止になったらしい。飲食店や風俗営業・映画館などの夜間営業の補償問題も深刻になってきている。こうした緊急事態を抱えて、政府のゴキブリ食品化対策は過熱し、環境問題解決のひとつの柱になっているらしい。

 もうすぐ北上してくるのかもしれない。スリッパだけではダメだ、彼はそう結論した。辺りにしのび寄る大勢のゴキブリの気配におびえながら、彼はノートにこんな信条を書きつけた。

 

 スリッパだけではだめだ

 もしあなたが毎日楽しく生きようとするならば

 この状況を素直に受け入れて

 率先してゴキブリ料理を学ばなければならない

 毎日 それを食べなければならない

 全身ゴキブリの服を着て窒息死する前に