芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

ある混乱

 やっかいな問題を抱えてしまった。一応息子ということにしてある。何故そんな馬鹿なことをしたんだ、そう問詰されてもお答えするすべはない。

 事の次第はこうだった。

 展示会で編物のポスターを見ていて、一度やってみよう、まったく思いつきにすぎなかったけれど。それでも一階に編物屋が入っているビルを訪ねた。その時、ハッとして気付いたのだが、編物なんて一度もやったことがないので、何をどう質問していいのやらさっぱりわからない始末だった。妻に相談することにしよう、いったん帰宅することにした。でもせっかくだから編物屋の隣のレストランを覗いてみた。いい雰囲気だった。今度編物屋に寄ったついでに妻とここで食事をしよう、そんな思いが頭に閃いていた。

 帰り道をたどりながら、もう一度考え直していた。そうそう。妻に相談しても、どうせムダだろう。もともと編物や手芸、あるいはさまざまなお稽古事は彼女の趣味ではなかった。同じ屋根の下で暮らしてからこのかた、そんな姿は見かけなかった。針仕事さえほとんど無縁の彼女がまして編物なんて。おそらく相談してみても、彼女は驚いたまなざしで、あなた、またなんで編物なんかに興味を持ち始めたの、そんな質問を浴びせられて、却ってわずらわしい思いをするに違いない。だったら、編物屋の隣のレストランに行こう。それなら彼女から余計な質問を受けず、楽しい時間を二人で過ごせるはずだ。

 不思議といえば確かに不思議だった。どうしてレストランの前を通り越してそのビルの裏側へ回ったりしたんだろう。そこは工事現場だった。作業員数人が忙しく立ち働いている。スマホのラインで妻を呼び出した。今、工事現場にいるがすぐにレストランへ行く。おしゃれなお店。いっしょに食事でもどうだ。スマホをズボンの右後ろポケットにしまうと、作業員の一人に、レストランはこの裏口から行けますか。そうそうそこからがレストランへの近道ですよ、彼は口元に奇妙な笑みを浮かべていた。

 暗い通路を歩いていくと、向こうから息子がやって来た。下半身を露出して、下腹部を押さえている。いったいどうしたんだ。彼は下腹部を両手で揉みしだきながら、通路の片隅に座り込み、このままじゃアもうダメだ、うめき声をあげた。事態が呑み込めなかった。何事が起ったのだろう。息子に違いないと思ったが、長男なのか次男なのか定かではなかった。じっと観察していると、どちらともそれ程似てはいなかった。むしろ彼は兄の顔に近いと思われた。しかし、通路に倒れ込んでいる人間に、いくらなんでもそんな失礼なことを尋ねるわけにはいかなかった。

 さらに不思議に思ったのは、何故妻の代わりに息子がやって来たのか、その上こんな重病を抱えて、何故暗い通路へさまよい出て来たのか。何故だ。何故。さっぱり見当もつかなかった。背後から、おそらくあの作業員だろう、救急車を呼んだ方がいいよ、かすれて上ずった声がした。再びスマホを取り出し、119を押した。待てよ、やっと彼は思い出していた。そうじゃないか、こんな馬鹿げた話は決して信用なんてしたらいけないんだ、誰かが仕組んだふざけた茶番劇だ。だってそうじゃないか、妻は九年前にもう死んでしまったじゃないか。