芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「ジェーン・エア」

 シャーロット・ブロンテが31歳の時に書いた小説を読む前に、聖書を読んだことがない人は、少なくともこの文章をあらかじめ読んでおく方が、ベターではないか、ボクはそう思う。

 

「それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。

 

 これこそ、ついにわたしの骨の骨、

 わたしの肉の肉。

 男から取ったものだから、

 これを女と名づけよう。

 

 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。(創世記2章21-24)

 

 シャーロットの書いた小説の最終章になって、この旧約聖書の言葉、「肉の肉、骨の骨」が出てくるが、これがもっとも大切なこの小説の主題のひとつだ、ボクはそう感じて、あえて創世記の一節を引用した次第だった。

 

 「ジェーン・エア」(大久保康雄訳、新潮文庫、上下2巻)

 

 ちょっと脱線してしまうが、聖書に関して言えば、ボクは時々こんなことを考えてしまう。創世記に表現されている「人」は前述の引用からも明らかなとおり、「男」であって「女」ではない。つまり、ここでは「男」から見た「女」への愛が語られている。思えば、新約聖書の福音を伝道する人々、言うまでもなく十二使徒のことだが、すべて「男」である。もちろんパウロも。異論はあるかとも思うが、この事実を率直に考えれば、聖書の世界は、この世に生きる「男」の救済の歴史だ、そう言って決して過言ではないと思う。ほとんど冗談に聴こえるかもしれないが、おそらく21世紀以降、「女」の救済の歴史が生成・発展し、この両者の救済の歴史が相補って「まことの救済史」が完成するのではないか。そのためには、少なくともあと四千年の時間が成熟しなければ……時折、ボクはこんな妄想を楽しんでいる。

 それはさておき、ボクのワイフが遺したこの本の奥付を見ると昭和38年の発行年月日になっていて、おそらく彼女が「ジェーン・エア」を読んだのは中学三年生の時だったろう。彼女はどちらかといえば長編小説が好きで、ボクと同じ屋根の下で暮らすようになっても、例えば「静かなドン」のような長い小説を次から次へと読んでいた。

 ワイフが亡くなってからボクは彼女の好きだった本を読み続けている。「ジェーン・エア」は1847年に発表されていて、その頃の英国は蒸気機関が発明されて産業革命が成功し、世界の工場として世界ナンバーワンの国家の地位を確立した時代だった。作者のシャーロット・ブロンテも従来の封建的女性観から脱却して新しい女性像をこの作品で完成させた。そのため世間をとても騒がせたとか。ボクのワイフは中学生の頃、こんな文章をワクワクしながら読んだに違いない。

 

「女性は、プディングをこしらえたり、長靴下を編んだり、ピアノを弾いたり、袋の縁を綴ったりするために、じっと家中にとじこもっているべきであるというのは、ずっと特権的な立場にある男性の心が偏狭であるからである。もしも、婦人の性にとって必要であると断定されてきた習慣よりも、もっと多くのことを行い、もっと多くのことを学ぼうと婦人たちが望むからといって、彼女たちを嘲笑し、非難するのは、分別のある態度ではない。」(「ジェーン・エア」上巻183頁)