芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

肉片

 ダイニングテーブルの左端の辺りに何か小さな肉片に似たものが置いてある。朝食のパンを頬張りながら、不審な気持ちになってそれをじっと見つめてしまった。そうだ。今日は平日だ。仕事に出かけなければならない。肉片から目を離し、私はミルクをぐっと飲みほしていた。

 食事が終わってテーブルを片付け始めたが、どこにも肉片を見かけなかった。なんだかキツネにつままれた気持ちになって流し台で食器を洗っているとき、左側のキッチンカウンターの上で例の肉片を見つけた。今では静止状態ではなかった。くちびる形のロースハム状物体が上下左右にくねくね波打ちながらうろついて、やがて吊戸棚の方までずるずる壁面を這いずりあがっていく。こりゃいったい何だ。呆然としたまま、私はなかなか目を離すことが出来ないでいた。ああ急がなきゃ。急がなきゃ仕事に。あわててコップや皿を食器棚にしまい込んで振り返ると、カウンターには青いキッチンタオルだけが小さな山になっている。あれッ。ロースハム状物体はいったいどこへ行ったのだろう。

 小さい頃から私は食事後には必ず歯を磨く習慣が身に付いていた。母はもう二十年前に亡くなってはいるが、とてもきれい好きだった。おそらくそれが影響しているのだろう。また、化粧鏡に歯磨き粉を飛ばして汚さないために、私は洗面ボウルの上に頭をかがめて歯を磨いている。すると、私の左眼に映っている。左側の洗面台のカウンターの上で例の小さな肉片がぺらぺら波打ちながら這いずり回っている。薄気味悪さを通り越して、いきなり恐怖が心の底までやって来た。ぞっとして私は顔を上げた。鏡の中の私の顔の左側には耳がない。そこにはちぎれた痕があった。誰がちぎったのだ! 背後では、宙に浮かんだ左耳が笑っていた。