芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

黄昏前夜祭

                        真昼にもたそがれ時のように躓き

                        死人のように暗闇に座る云々。

                              (イザヤ書五九章十)

 

                                   ―その発端

 何事も最初が肝腎である。だから私が近年頓にあちらこちらの学会・研究室周辺で注目され始めたあの≪黄昏前夜祭≫の真実の由来を物語ろうとする前に、その発端について少しく描写するのを大目にみていただきたい。とまれ、出来事の発端を一切無視して結果・結論にのみあわただしく迫らんとする性急的方法と単純的方法、この二つの方法を私は予てより極度に忌み嫌っているものであるー性急的と単純的―或は、言いかえれば、素朴なる性急癖、また、性急なる素朴癖を。何となればそこからは一般的諒解と一面的快感が発生し、それ故に一般的一面的誤解、更に言うなら、善意に満ちた誤解に我知らず確信して迷い込む恐れもなくはあるまい。それは即ち余りにも人間経験的=人間観念的なるブルジョア式諒解点の脳天一般ではないか。もって結論とするに、私は性急的=単純的理解に自己を位置せしめようとするならば、寧ろ極めて錯綜若しくは極めて支離滅裂、それもとりわけ耐えがたい絶対的なる支離滅裂、この方法もなき方法こそまさに私は趣味し偏愛し選択するのだと言わなければならない。まずは≪黄昏前夜祭≫の真実の由来について少しく描写する所以である。

 K劇場については既にお話ししたのだろうか? あの劇場に行けば誰でも≪黄昏前夜祭≫の真実の由来に関して傾聴することが出来なくもないのだが……だがそれも無理もない話だ。仮令私がK劇場について≪かしこに真実の由来あり!≫とあらかじめお話していたにしても、誰があんな劇場にまでのこのこと出向いて、面白くもない≪黄昏前夜祭≫の真実の由来に関して傾聴しようとするのだろう。馬鹿馬鹿しい……言わばK市(これがかつて私の住んでいた街の名前である)を象徴するのがK劇場である。即ち、K市の特徴を集約し凝縮し代表し解釈してみせるのがまさしくK劇場である、私はまずもってこう報告しなければならない。何故ならK市の市民全員が窃かに口をそろえてそう噂しているからである。(だがしかし簡単に騙されてはならない、或は狡猾なK市民達はみんながみんなそんな風に口車を合わしているだけなのかも知れない)

 さて、誰しも行きたがらない場所、誰しもその場所についてはあれこれ口角泡を飛ばして会話し意見し論戦しさも精通しているのだと主張したがるくせに、いざとなれば断固として自ら直接にはいくことを欲しない場所、もしもそんな場所が実際に存在するとすれば、それこそあのK劇場のことでしょう、とズバリ指摘してみたくなってしまう。嘘だと思うなら、諸君、一度K劇場の前を試しに通り過ぎてみたまえ!

 K劇場は、劇場と言うよりも寧ろ誠に下品なるレストランと呼称するほうが相応しいだろう。一寸でも想像力のある人なら(それもほんのちょっとだけでいい)、あの下品なるレストランのテエブル一面に散らかった御馳走を脳裡の暗闇へ鮮明に描いてみるに違いない。夥しいごきぶりが浮かんだ漆黒の深夜にも似たシチュウ、茶色い色褪せたサラダの中からコロコロ転がり落ちる幾千の鼠の頭、勿論鼠の頭蓋骨をゴツリゴツリテエブルに上で叩くと美味しそうな空色の蛆虫がゴッソリ山となって這い出してくる、尚、ミルク料理の表面をうっすら膜のように覆い尽くした黄色い人体の皮、偶には自分の手足やら耳たぼやらをゴシゴシ切断しそれ等痛痛しいソオセエヂを口一杯頬張ってモグモグしている欲張りのお客様……否、この程度ではまだまだ食わせ物でもなんでもない、そんな風に言いた気な勢いではないか!

 黄昏だった。この奇妙に饐えた死体料理の香りのプンプン漂ってくる劇場の通りを通過しようとした瞬間、私の内部から≪何か≫が覚えず込みあげてきたのだった。そうだ、もう私にとって殆ど習慣のようになってしまった≪あの何か≫が込みあげてきたものである。……その感情をより正確に伝達しようとすると、言わば≪永劫から永劫にわたって最早凝と暗闇に座り込んでしまいたい感情≫とでも言えば適切な表現でもあろうか。さらに言いかえれば、≪わざと路上の石ころに躓き、全身砂埃にまみれて、衆人環視の面前で、あだかも死人のようにじっくり暗闇に座り込んで泣きじゃくってやりたいものだ!≫、そんな、いきなりどんと井戸の底へまっしぐらに転落してゆくような、自己を一個の巨大なる知恵の輪遊びのパズルへと変身せしめる、黄昏時のメランコリアだったのかも知れない。……軈て、私は奇妙に饐えた死体料理のこうばしい香りにグイグイ魅せられてしまい、爪先から頭の天辺までポオオと酩酊し痺れ切った感覚を覚えて、ゼンマイの段段ゆるみ始めた自動人形がフラフラッとテエブルの片隅に倒れ込んでしまう格好で、ポッカリ大きな赤い口唇を開いたK劇場の入口へ、フワリフワリ吸い込まれてしまったのである。

 K劇場の内部は、まさしく≪じっくり暗闇に座り込んでやりたくなる≫黄昏時の感情を満喫させるかの如く、さながら暗黒の黒インキ壺であり、唯、時折その暗黒に一条の藍色の光線がポッポッと明滅するばかりだった。私の瞳孔は次第に暗黒の色彩に慣れ親しみ始めた。すると、ポッポッと光り輝く藍色の光線の彼方に、一人の極めて痩せぎすの男のシルウェットがボンヤリとスクリンの上へ映しだされ、どうやらその男の影絵がすべてを物語る≪弁士≫なのだろうか、誰に語るともなしに何やらぶつくさ呟いていたのだった。辺りは観客の影絵が夥しくユラユラ揺らめいているようでいて、しかし人の動く気配もカアテンのヒラリとする気配もなく凝と静まりかえっていて水の音もしない。ヨ、ヨシッ、私は独り頷いていた、ひとつ永久に暗闇へ座り込んでしまいたくなる微妙な≪あの黄昏時の感情≫をとっぷり満喫させてやろう……突然、例の≪弁士≫はけたたましく大口をあけてまくしたてていた。……

 所で、この物語を語り始めるにあたって、私は≪発端≫がどうだと言っていたのか。読者よ、これが≪黄昏前夜祭≫の所謂≪発端≫である。

 

 

                                 ―弁士は語る

 ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………針千本呑んでも鬼は矢張り鬼!……さて、今や連発式花火が打ち上げ始められてから既に小半時は経過していたのでありましょうか。連発! 連発‼ 連発⦿ われらの名づけて所謂≪黄昏前夜祭≫がその緒を連発式ピストルの如き爆弾花火によっておのずから切らしめられ、おおいに怖しく上気せしわれらの相貌を、更にこれまた、いとおどろおどろしき連発花火の轟音と極彩色にて、さながら髪振り乱しし狂女に酷似させしめたものでもありました。かくして、花火⦿ 花火‼ 花火! しかるに我が猫被りの読者、この言わば人工的黄昏が(何となれば、見よ、われらの黄昏乃至黄昏的感情は、唯ひたすら天幕内部に座り込み、いやはや! 肉にもならない言葉もて創造されている!)、苟も人工的黄昏が、人工的且つ構築的であると呼称せられん必然性をば徹底的に研究してみようではありませぬか。人工的! 構築的! 徹底的! 尚、研究的! ああ何という人生の宿題。何という美しき言葉の課題。かかるが故に所謂≪黄昏前夜祭≫は、まずもって! ≪黄昏の必然性≫ないし≪黄昏の研究室≫から始まる、かく定義しておきましょう。……さて、最初に起るべき疑問は、ソ、ソウ、ソウデスネ、如何なわれらとて天幕内部にて連発式花火は言わずもがな単発式花火だに打ち上げる事、奇奇怪怪、奇妙キテレツ、不可解至極、模糊曖昧、不断優柔、詭弁抽象、難解奇病、横着奇聞、奇癖進出、弁解自在、安定喪失、壮者不在、妻子離散、苦痛権保障、理屈履行、理論泥棒、誇張指導者、耳たぼ粉砕、ガラス玉吐露、尻滅裂、大変感激人、悔恨習慣者、一生涯弁明、告白捏造、熱弁論者、感情的哲学徒、流行病偽善、お好み童子、解剖失敗、永劫執着……兎に角、諸君は懐疑する。懐疑、懐疑、屁理屈懐疑、盗人会議、事件願望、孤立失望、尊大満足、論戦志願、嘲笑癖喜悦……ソ、ソウデショウ、兎に角、ヨ、ヨロシイ、ヨロシイ、ドウゾ、ドウゾシテクダサイ! まったく諸君の懐疑は正しいのでありました。否。寧ろ諸君は少少早計に過ぎないとも言えなくもありますまい。即ち諸君は、常に俺達は性急な馬鹿者である、例えば俺達は天使長ミカエルの御顔をば直視する前に、天使長ミカエルの双眼に写りし俺達自身の御顔をつい直視してしまう周章者だ、そう告白すべきでありました。何となれば、われらの本質的困難は一体どの場所にて花火を打ち上げるのでありまするか? といった場所的選択には一切存せず、一体誰が花火を打ち上げるのでありまするか? その一点に帰すべき類であったわけです。何となれば、如何にも元よりわれらみな理論家にして同時に実戦部隊乃至工作者ではなかった故である。おお何となれば! われらみなカツレツさえ作る能力を持たぬ生活破綻者であった。われらみな十二歳と四十九日の少女にさえスッキリ貫通し得ない誇り高く萎びきった極道者だと宣言する。われらの肉欲は涙の坩堝だ、肉体は涙の壺だ、見よ、見よ、断じて見よ! われらの肉体を極端に搾り上げハンカチフの如く大空へ翻せばハラリと涙の言葉が零れ落ちるであろう。おおそれならば! われら瞑想化集団は生活問題不得手への罵詈嘲笑を、甘んじて! 喜んで‼ この瘦身に⦿ 引き受けると大言壮語します。ここにわれらのまったく自己酩酊的金言をば大胆にも確認しておく所以であります。―

 

 我が友たる汝らに告ぐ 身を殺して後

 何をも為し得ぬ者どもを懼るな

          (ルカ伝十二章四)

 

 かくしてわれらの宿題は、一体誰が花火を打ち上げるのでありまするか? という問題の解明へと今や歩を急かせるでありましょう。なかんずくわれらは断言する、花火を打ち上げるのは何者でもない、と。然り、或は、やや否。われらは花火を打ち上げるのでは断然なしに、全体まさに撃ち落とすのである。天幕頂点の梁からずっと地平面に向かってスッポリ綺麗に円錐形に並べられた花火の列へ、黄昏派の唯一の武器なる≪連発式ピストル≫にて撃ち落とすのであった。左様。さてはありとある殺人色彩をして、苺色・月光色・緑色口紅・顫動式青馬車機械・オートマチック紅蝙蝠・ステンドグラス粉砕機・ミシン型極光つづれ織・手提げ藍色植物園・放牧的絵具箱・カラー幻燈コンパクト散歩道……ありとある色彩爆弾をして色彩火薬庫をして天幕内部を大炸裂せしめよ。最早如何なる荒武者と雖もわれらのかく唄わんとした悪しき無限行進曲をば判断中止のゲバルトもて搾取し抑圧し弾圧し裁判して投獄する事あたわぬであろう。―

 

 いと聖き嵐のなかに

 わが獄舎の壁は崩れ落ちよ

 わが心今よりも美しく自由に

 見知らぬ国へとさまよい行け

       (ヘルデルリン)

 

 アーメン、ラーメン、汝らに告げます。黄昏前夜祭は連発式ピストルの大反響とともに開始された、と。連発式ピストルの弾丸が幾千の花火へ命中するや、それら単発の花火は永久連発的に破裂しながらそのまま火花がビードロ天幕の壁面へ突撃し、さらに突撃し、円錐形のビードロ天幕の内壁にそって円錐状の火花の輪を形成してゆくのであった。諸君! 今やわれらはビードロ天幕の内部に存在しているのではなくして、まさしく火花天幕の内部に存在していたのである。天幕内部のまったき闇の中で、それら美しく混沌せし光の輪を生成せしめたわれらをして、しも≪黄昏製造人≫と断定するに未だ躊躇すべき理由なぞ最早毛頭ないではありませぬか。然り、断断固躊躇すべき時ではない! だがしかしわれらの実験的意思=冒険的理性は底の抜けたバケツのように涯もなく止まる所を覚えなかったのである。……さて、次に≪自動思念式仕掛花火≫を御紹介してみよう。ここにわれらの提起せし≪自動思念式仕掛花火≫とは、言わば単なる≪押しボタン的原爆仕掛花火≫の如き安ピカ擬い物では断然なくして、天幕の頂点よりピンと吊るされし赤色ロオプをぐいぐい引っ張り下ろす仕儀によりて、所謂≪オバネステル効果≫を生成せしめ、さて≪オバネステル効果≫が所謂≪リオクレラミンエナヂイ≫を創出する瞬時を捉えて、赤色ロオプをドンと手放す(勿論註釈を加えるまでもないが、あらゆる色彩の中では≪赤色≫が最も≪オバネステル効果≫を媒介しやすいのは言うまでもあるまい)、以上の運動を大凡数度乃至数十度単純上下運動にて繰り返してみる、さらば自然必然的に赤色ロオプの上下運動ベクトルエネルギーがおのずから必ず≪永遠的リオクレラミンエナヂイ≫へと転化し、遂に天幕内部の存在を行成り外部へと逆転させ、よってもってその時内部は且つ外部、有限は且つ無限、安定は且つ不安定、連続は且つ非連続なる≪円錐状の凹み≫を烈しく増幅せしめ、大宇宙の現前としての小宇宙≪円錐状の凹み≫は点即空間である事実により(蛇足になるけれども、一言するならば、点即空間という事実存在は無論のこと点即線乃至線即空間という事実存在を含む、つまり≪円錐状の凹み≫は≪連発式ピストルの弾丸≫なのだ!)、先に≪大宇宙の突発的創出物体≫即ち≪連発式ピストルの弾丸≫(若しくは≪小宇宙≫、だから≪円錐状の凹み≫と考えてもよい)が形成した現象≪火花の輪≫をしてわれらの脳髄に思考されし想像的物質を直ちに現前せしめるものだ。思考即現前! 想像的物質即永遠的具象体! かかるが故にわれらの思考は火花の輪へ≪現前≫され、果して急遽火花の輪を新しく転形し新しく表現せしめてゆくのであった。例えばー

 

 見よ、たそがれの人を!

 

 突如かくなる表現体が火花によりて形成されたものである。即ちそれはわれらの脳髄の暗箱全体が、

 ◎見よ、たそがれの人を!◎

という表現体をば窃かに欲望し想像していた事実を単的に証するのであった。(注意せよ。唯、この場合、脳髄に思考された物質が直接的瞬間的にありのままの具象体として現前されることになり、さては忌わしい、恥ッさらしな、人に知られたくないような想像的物質を内包した脳髄占有者に対しては、事実の現前そのものが彼への裁きとなるであろう。ここによりて、奇しくも、大凡二千年前に、人を最早心としてしか見ない、と断固言い切ったパウロ的原則即願望がまことにまことに成就されたのである)……今や、天幕内部で激烈なる拍手が怒涛の如く沸き返っていた。覚えずわれらみな会員は起立していた。われらみな小学生のように美しく起立していた! しかるに委員長は弓なりの姿で両腕を拡げ、虚空の一点を凝と見つめて、大音声にて演説していたのである。―

 

おのおの方! われわれが≪永続性リオクレラミンエナヂイ≫をまさに≪方向性ベクトルエネルギー≫より生成せしめた事実は一体如何なる大変革を捲き起したものでありまするか? とくと御明察の程を! 今やわれわれはわれわれの最も怖るべきかの≪出エジプト記十章二一節≫から≪十一章十節≫へ至る過程に記されております所謂≪暗黒と夜の災禍≫より決定的最終的に決着をつけるべき方法論をば発明したので御座りまする。ハイ。最早旧型埃及式パロ恐慌とてわれわれ≪黄昏の騎士≫に何程の物たるでしょう。古来詩人哲学者をして唄わしめたるかの言辞、

◎友よ、友よ、我が最愛の敵よ、かくしてわれらの脳髄全般をカアテンのように開き、大宇宙   

へ現前する星座、凸凹のある歳月の秩序をうっとりとして眺めようではありませんか。友よ、

我が最愛の侮辱よ、あなたがたの脳髄全般もまた一冊の開かれた絵本ではありませんか◎

構築的・余りに構築的なる言辞を彷彿せしめたのでありまする。われわれは連発式ピストルによりて火花の輪を製造する超科学的方法論に基づき、われわれの手の平と自然・事物の間隙へ超科学型脳髄をぐいと挿入し、われわれの精神をば自然・事物よりまったき自由なる物質(即ち物質とは物質だけではない!)といたしましたところ、終に≪永続性リオクレラミンエナヂイ≫の発明によりて、忌わしき告白の偽善的陶酔症を完全に粉砕し、如何なる物質・超物質(物質ではない物質)にも常時注入可能な永遠の実在を現前せしめました。想像的物質即永遠的具象体! であります。おのおの方! われわれに残された道は、唯、われわれはほんとうに出発する気がありますか、どうですか、この点、この点、この点を明白に、この点を明白過ぎるくらいに明白に! 諸君! 直ちに明白に!

 

 拍手はいつまでも鳴りわたっていた。感激の余り、委員長の両腕は三日月の形を描いて虚空を力いっぱい抱き締め、ニコニコと笑みさえ浮かべて、壇上をあちらこちら行ったり来たり盛んにはしゃぎ回っていた。われらみな大爆笑のドヨメキを催していたのだった。と同時に、見よ、天幕は地上を離れて、海上へ、大海原へ、超地上へ辷り込み、とんがり帽子のような≪天幕船≫となって、一路、緑の島≪ランゲルハウス島≫へと高らかに帆を掲げて出発していたのであった。出発! オオ誠に高らかなる出発!

 遠ざかりゆく≪天幕船≫からは、大爆笑の反響に混じって、四五人の≪黄昏の騎士≫がそっとマストへ寄りそいながら、誰にともなく私語くように、自らの過去を憐れむように、幽かな合唱の響きをしんしんと大海原へ漂わせていた。……

 

  おお まどかなる月影よ あなたがあたしの苦痛を眺めるのも

  今宵が最後であってほしい……

                (ゲーテ)

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 不意にあちらこちらで疎らな拍手がパチ、パチ……と聴こえてきた。と同時に藍色の閃光が立ち消えて、暗黒の中へフワフワッと弁士の姿が溶け去ってゆく。―恐らくこれが≪黄昏前夜祭第一部≫の終了した合図なのであろう。私は闇の中に座り込んで独り言ちていた、それにしても私の他にも観客が座り込んでいたなんて迚も信じがたいお話だ、フム、とすれば私と同じような忌わしい興味を抱いている連中が他にもいるという証拠をやっとつかんだわけかア、何て馬鹿な連中だ、直ぐに正体を現すなんて、お馬鹿さんめ……時折何処か見当もつかない方角から、俺さまがここにいる、とでも言いた気な≪しわぶき≫の発作が聞こえてくる。フムフム、ホントに恐ろしく幸福な奴等だ! 実際こんな忌わしい場所からトットと引きずり出してやりたくなる! だがしかし私は何も心底から憤っていたのではなく、闇の中を窃かに窺うように眼を見据えて、時時いやらしい手付きで頬を撫でてみたりキュッと抓ったりしながら、私の同類たちをヘラヘラ冷笑していたのだった。言うまでもなく私には虫けらよりも劣った奴等の浅ましく恥ッさらしな心が手に取る如く明らかに見え透いてくるのだった。まったく私と同じ底の抜けたバケツの心……そんなツマラナイ事をあれこれ思いやってるうちにも、藍色の閃光がポッポッと再び煌めき始め、そのスクリンの彼方、例の弁士のシルウェットが薄ボンヤリ佇んでいた。よく見れば、藍色の閃光がポッポッと煌めくたび、彼の頭部が円錐になったり逆円錐になったり、奇妙な具合にクネリクネリ変形されてくるのだった。まるで粘土細工の頭だ! 既に弁士は大声を張り上げていた。―

 

 

                              ―再び弁士は語る

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………漸くにして緑の島≪ランゲルハウス島≫へ到着した。われらは天幕船よりココア色なる丸木舟を降ろし、美事にして爽涼たるグリーン海岸へと向かった。アアそれは麗らかなる正午であった。成程、噂の通り緑の島≪ランゲルハウス島≫はまさに原色の極彩色の緑色そのものである。べたいちめんの緑色球体である。そうして、見よ、直ちにわれらはその原因を諒解したのであった。即ち≪ランゲルハウス島≫に於いては真昼時より痛快にもグリーン星座がピカピカ輝いていて、のみならずそれらグリーン星座は夥しい緑色の驟雨をジャアジャア泣きじゃくるように降らし続けていたのである。さて、われらは丸木舟より仰ぎ見し幾千のグリーン星座群を詳細にわたって観察したのだ。と、われらの探検帽も前髪もワイシャツも半ズボンも緑なす星の涙にて緑色に、完全なる緑色にすっかり染めあげられてしまったものである。われらはわれらがおおいなる大爆笑でもって互いにパチクリ目配せを交わしていた。かくて緑なす微笑。緑なす爆笑。緑なす大合唱。かくして緑色に変化せしココア色なる丸木舟の上にてわれらは緑色の美しい昼食をば食した。オオ何となればかくして緑色の合図と共にまさしくわれらの上陸作戦は開始せられたのである。

 これより先われらは如何なる仮定をも感情をも空想をも願望をも敢えて捨て去りて、唯唯事実の現前のみを明晰且つ判明にて報告してゆこうではないか。―さて、われらが緑の島≪ランゲルハウス島≫にて目撃せしは緑色の巨大なるきてれつな馬である。緑なす双翼、ティラノサウルスの如きその爪、サンチョ・パンサに酷似せしにぎにぎしき微笑、ロシア十九世紀作家を真似し青青しき頬の髭、プロントサウルスを模倣せし巨大なる尻尾、これら全体が途方もなく雄大な緑色のブリキで作られた胴体に溶接されている……かの馬は大凡以上の特色を有せしものなり。許せ。遂にわれらは≪黄昏のおもちゃ箱≫から連発式ピストルを取り出し、ハッシと孼鉄をば引いたのだ。見よや、ランゲルハウス島上陸作戦! 馬よ、馬よ、緑なす双翼を持ちし巨大なる馬よ、許せよ、許せかし! アア哀れなるかな! 最早汝は絶体絶命である! 最早汝は美しき粉砕である! 何となれば猛牛の雄叫び持ちし≪黄昏の騎士団≫委員長クラックス・クラッカスが汝めがけて忽然と吶喊したのである。あわれかの勇姿を見よや。かの惚れ惚れとする勇姿をば遥かに見やればわれらみな、海の友なるターレス乃至太陽の使者アフラ・マツダ乃至暗窟王ヘラクレイトース乃至金羊毛の織りなす金剛力士ヘラクレス乃至牡牛の友なるアキレウス……仄かにもかの勇士らの肖像を縹渺として想起せざるを得なかった。然り。やや否! 何となれば見よ! いまはや委員長クラックス・クラッカスがおおいなる正午の没落はここに始まるのであった。

 

 カチン!

 

 正確且つ完璧にも巨大なる馬へ命中せし連発式ピストルの弾丸はいささか奇奇怪怪なる金属音を反響させしめてカチン! と弾き飛ばされていた。まさか! だがしかし事実である、事実の現前である、現前の報告であるのだ! にも拘らず雄叫びの友なる委員長クラックス・クラッカスは一厘一毛のひるみだに見せず突撃をうち重ねた。かくして委員長クラックス・クラッカスが正午の没落は益益迫り来るのであった。

 

 カチン! プッスン!

 

 見よや、見よや、緑色スフィンクスが裔なる巨大なる馬は憎憎し気にもニコニコ微笑んでいた。弾丸は軽やかに金属音を反響させしめて辺り一面パラパラッと綺麗に飛び散っていた。即ち至高にして至福なるオリュンポスの神神はなべて委員長クラックス・クラッカスへ終に味方しなかったのである。されどわれらが委員長は激烈に撃ち続けた。耳あるものは聴け! カチン・コチン・パチン・プッスン……アアされど悲しいかな! 今や委員長の喉笛だけがゼイゼイ空ろなる哀号を洩らすのであった。彼は塵の中へ座り込み、頭から灰を撒き散らし、両手で頭髪をバリバリ搔き毟って、衣服の胸倉を引き裂いた。唇からは黒色の泡のような涎を垂らし、瞳はボンヤリ虚空を眺めている。しかし断じて彼は敗北したのではない。今や彼は勝敗の彼岸に座ったのである。つまり彼の精神は既に没落してしまったのである。その男性的な狂気の姿を凝と見つめていると、われらはもう二度と零すまいと誓っていた哀哭の涙を覚えずハラハラ流していた。涙は緑色にクネクネ曲がって頬を垂れてゆく。かくして愈愈委員長クラックス・クラッカスの終末がやって来たのである。

 

 パチリ!

 

 突如として巨大なる馬が委員長の上体へ覆いかぶさるや、パチリ! パッチリ! 委員長の肉体は巨大なる馬の右足の下でパッチリ圧し潰され、さながら緑色の干し烏賊のように綺麗に鞣されていた。巨大なる馬が右足を上げし時、雄叫びの友なる委員長クラックス・クラッカスは最早すっかり凹んで緑金メダルに変形していたのだ。と、緑金メダルはふいと天空へ飛翔しながらまるでシクシク啜り泣くように緑色の涙を零したものである。≪ひとたびランゲルハウスを視し者は、なべてみな星になり……云云≫、我が敬虔なる諸君、これが緑の島≪ランゲルハウス島≫の神話であり、星になった委員長クラックス・クラッカスの事件報告書なのだ。……一方、如何にもわれらはひたすら遁走するのであった。もとよりエメラルドグリーンの翼持つ巨大なる馬はズンズン追跡してきた。かくて巨大なる馬の足下で幾千のわれらが≪黄昏の騎士団≫同士は、美事パッチリ! 緑金メダルに変形したかと思うや、且つ虚空へ飛翔してゆき、且つまた夥しい緑の涙をザアザア降らせて来るのだった。アアなれこそは余りにも綺麗なるフーガ! 言わばこの事実の現前こそ黄昏が星に、即ち夜になるという必然性をば証して余りあると言えようか。

 今や何をか言わん! である。……危うくも緑色に変色せしココア色なる丸木舟へ飛び移って海岸を離れた時には、アナ無惨! われらが同士は四人になり果てていた。かくしてわれらが四人は丸木舟の上よりグリーン星座群に向かいて唯冥福を祈るのみ。―

 

 わたしたちは

 人を惑わしているようであるが

 しかも真実であり

 人に知られていないようであるが

 認められ

 死にかかっているようであるが

 見よ 生きており

 懲らしめられているようであるが

 殺されず

 悲しんでいるようであるが

 常に喜んでおり

 貧しいようであるが

 多くの人を富ませ

 何も持たないようであるが

 すべての物を持っている

 ランゲルハウスを視し者よ

 グリーン星座群よ

 あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており

 わたしたちの心は広くなっている

        (ランゲルハウス後書)

 

 再びわれら残されし四人は天幕船に乗り移っていた。そのうちオメガ君ひとりを除いて、われら三人は赤色ロオプをグイッと引ッ張り下ろした。オオ何となれば! かくしてわれら三人は赤色ロオプへ自らの首を括りつけたのだ。さよなら、オメガ君! さようならだ! オメゴリーア! よしやわれらの事実を事実そのままに後世へ伝えてくれたまえ。オメガ君、オメゴリーア・ペトロヴィッチ、ホントにさよならだ! われら三個の生首は赤色ロオプに吊るされて、美しい祈りの形に、ぷはりぷはり永遠に緑色天球へ揺らめき続けていることだろう……アア諸君よ、諸君よ、これが≪黄昏前夜祭≫の真実の由来であり、唯唯ひとえに黄昏の預言書たる≪ランゲルハウス前書≫から≪ランゲルハウス後書≫へと至りゆく予言の必然性をば成就するためであった。即ち≪黄昏前夜祭≫は、途方もない花火の大爆発から始めて、言い知れぬ≪黄昏終末祭≫のシンミリとした噎び泣きで終わったのである。

                           語部 オメガ・オメゴリア

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                           ―黄昏前夜祭株式会社の秘密

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………オメゴリーア、オメゴリーア、オメガ・オメゴリーア、オメゴリーア・ペトロヴィッチ……不図気が付くと、私はテエブルの上にうつぶしたままぐっすり眠り込んでいたのだった。先程から耳の側で、泥酔の揚句ワアーンワアーンと幽かに耳鳴りがするように、オメゴリーア、オメガ・オメゴリーア、オメゴリーア・ペトロニタス、こんな風に観客の連呼する声が聴こえていた……オメガ……オメゴリーア………オメゴリーア・ペトロヴィッチ…………オメーガ…………

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…………いつしか私ははっきりと目覚めていた。泥酔のためまだ頭の中が少なからずワンワン騒いでいるが、もう嫌な吐気に襲われることもなかった。所で、私は小さな二階建のアパートの二階の一室に住んでいるのだけれども、安普請の上にずいぶん古ぼけてしまった床や壁を通して、時折階下の部屋で何やら得体のしれないナメクジ状の物がモゾモゾ蠢いている気持がしてくる。今、その階下の部屋から柱時計がボンジャン・ボンジャン五つ鳴り響いてきた。丁度午前五時である。

 どうやら手持無沙汰になっていた私は、凝と自分の手の平を眺めていた。実を言えば、手の平をじっくり眺めていると、時折私は奇妙な不安定感を覚えてしまうことがある。成程。手の平には不思議な存在感が潜んでいるので、少なくとも数分間、勿論言うまでもなくそれ以上長い間眺めていると更に都合がいいのだけれども、段段手の平が自分の肉体の一部分ではなくなってしまったような、そんな奇妙な不安感をつい覚えてしまうものだ。存在感即不安定感……これに極めて類似した不安定感を、以前私は妻に教えられた記憶がある。妻が指摘していたのは、確か≪物質の意識≫に関してだが、(≪物質の意識≫という代物は殆ど当てにならないものだ。≪妻の意識≫が≪私の意識≫を≪裁いて≫みたり≪殺して≫みたりする場合だって起こり得るし、亦、逆の場合が突然起こることだってある)、例えば、もうホントに他愛ないものだが、不意にビルヂングが意識を持って大笑したりドシンドシン並木道を散策してみたり、天井や壁が意識しながら居住者の脳天へドタリバッタリ靠れ掛かってきたり、飛行機やら電車やら自動車やら自転車やらが人間達を乗せたまま自らの意識のおもむくままに、森の上や湖の底を通り抜けて、果ては人体の口からお尻の赤暗いトンネルまでずっと旅行を思いついてみたり、こんな出来事は聊か荒唐無稽な話で根拠がないだけにまったく他愛ないものなのだが、しかし残念なことには、事実≪物質の意識≫の中ではすべてが起こり得るのである。……そんな意識に関する妻の意見をボンヤリ思い浮かべながら、もう一度私はじっくり自分の手の平を観察してみた。この時には手の平も既に私自身の肉体の一部分では無くなっていたので、私はまるで細密画でも凝視しているようにシゲシゲと自分自身の手の平の彫刻を観察できるのだった。手の平、手の平、手の平、石の手の平、夥しい手の平、幾千の手の平、いまにもポッキリ折れそうでいて痛いくせに我慢しているお利口さんの手の平、噓つきの手の平、この硝子製の手の平、意地悪の手の平、バッサリ捥ぎ取られた手の平、ふはりと夕焼け空を飛びかう幾億のあかとんぼの手の平、お月様を乗せて巨大に脹らみきった手の平のイタズラ……私は小気味よく何度も何度も≪手の平≫と呟きながら、今度は両の手の平でそっと自分自身の首のまわりを絞め付けてみた。そうして、妻の言う通り、言い換えるならば、妻のお望み通り、アアもしもこの手の平が≪物質の意識≫を持ったなら……そんな風に独語していたのだった。……

 ……私は頭の中でいつものように≪創作≫に耽っている自分に気付いて、周章てて雑然としたテエブルの上へ眼を移してみた。けれども、テエブルの上には見るべきものは何もなかった。二三日前に近所の薬屋で買い求めた目薬くらいが目新しいと言えるくらいである。最近理由もなく非道い眼痛に悩まされ、医者の助けを借りることは自らの人生に敗北を認めることだ、いつか誰かの手記の中でそんな語句を読んだ記憶もあり、もともと間抜けで人の言うところをついそのまま信じ込んでしまうお人好しの私には、医者という言葉を聴いただけで妙に不安な気持に陥ってしまう、或は、妙に自ら好んで不安になりたがってしまう悪癖があった。言わば私はそれ程までに健全なる身体を持っているのだ! で、その結果が、この真新しい目薬である。言い忘れていたが、先程≪創作≫に耽っていると言ったのも、つまりまだ独身者であるくせにわざわざ≪妻という存在者≫をでっちあげていた、私のロマネスクな創作癖にもう辟易していたのである。

 アパート住まいの唯一の装飾品、壁に掛けられた古風な銅版画「ペトロニタスの肖像」―イジドオル・ハーマンの創作になるペトロニタスのメランコリックな物語に関しては別の機会に是非お話してみたいーを見ていても、こんな明け方にはなんの感興も湧いてこない。何処か遠い異国では暁に死刑執行人が断頭台へ送るためこっそり囚人を迎えにやって来るそうだが……兎に角、こんな明け方には小鳥の合唱する音楽にでも聴き浸っている方がまだしも救いがある。小鳥達の合唱は、薄明からまばゆい朝の光に近づくに従って、幽かなトレモロの独唱に始まり終には轟轟とした大合唱へとゆっくり展開されてゆくのだ!

 亦、言い忘れていたことがあった! (私はこれまで何度くらい言い忘れをしたのだろう? 人間が生まれてから死ぬまでの間に言い忘れてしまった事柄を巨大な一冊の書物にすれば面白いかも知れない。それにしても私は間抜けだから言い忘れをすることなんて平気だし、それに人間という特殊なる物質は他のあらゆる物質と異なって事実を忘却することに一種名状しがたい慰めさえ覚えているのではないだろうか?)……私はテエブルの上に一体何が雑然と散らばっているといったのだろう? 真新しい目薬の他にも(やれやれ! こんな頓馬な目薬など糞くらえだ!)、一通の手紙が置いてあったことをもっと早く告白すべきだったのではないか。

 封筒は≪アンブロシオ・ペトロニタス様≫と私宛になっており、差出人は≪K劇場支配人オメガ・オメゴリア・ペトロヴィッチ≫と書いてある。さあ、それでは中身を吟味してみよう。―さて、中身は一枚の小さな黄色い紙切れと五六枚の薄水色の紙を束ねた手紙で構成されていた。小さな黄色い紙切れの方は、どうやらペトロヴィッチが走り書きしたものの複写であるらしく、次にその全文を掲げておこう。

 

  アンブロシオ・ペトロニタス様―

 今日の黄昏時、と言ってもこの手紙があなた様へのもとへ着信する頃には、既に昨日の黄昏時となっているかも知れませんが、兎に角、理由はともあれ、はからずも当K劇場に御来訪くださりまして、支配人一同厚く御礼申し上げます。

 さて、僭越ながら、≪黄昏前夜祭≫の由来を語った弁士は小生ことオメガ・オメゴリアで御座居ますが、果してあれだけで≪黄昏前夜祭≫の由来の全貌を充分御納得戴きましたでしょうか? はなはだ心もと無い次第であります。

 しかるに、ここに一通の手紙が舞い込んでまいりまして、いささか≪黄昏の騎士≫たる最後の人≪オメガ・オメゴリア≫の消息をば伝えていると思われ、蛇足とは思いつつ、早速あなた様にも御拝読戴く運びと相なりました

 尚、黄昏の騎士たる最後の人≪オメガ・オメゴリア≫と小生がまさしく同姓同名である! この辺りの奇妙なる象徴に関しましては、何卒、その間ののっぴきならない事情を宜しく御推察の程、切に御願い申し上げます。ではこれにて≪黄昏前夜祭株式会社≫の面接試験及び読解力テストの全てを終了させて戴きます。

                              支配人ペトロヴィッチ

 

 こうしてみると、私は実際K劇場へ行ったらしく、あれは単なる夢物語ではなかったのである。何故ならこの手紙がはっきりその事実を証明しているわけだ(不図この手紙は誰かのイタズラではないかという疑念も走ったけれども……)。それにしても忌忌しいのは、ペトロヴィッチの極めて狡猾な遣り口である。彼の手紙は先にも述べた通り複写されたものであり、しかも走り書きでもあり、「俺は非常に忙しいのだ。おまえが≪黄昏前夜祭≫に興味を持とうが持つまいがそいつは一向かまわんが、俺の事業の邪魔だけは一切止してくれたまえ。うち遣っといてくれたまえ。まあ、ここにくだらんコピーでもあるから、こいつでちょっとでもおまえの飽くを知らない欲望を満足させてやることだな。それに、今回ははっきり言ってしまうが、≪黄昏前夜祭≫に興味を持っておるのは何もおまえだけではないのだからな! よおく覚えてろ! 兎に角、兎に角、俺の事業は忙しい、忙しい、忙しい……」―どうやらこんな仄めかしを暗示しているような気がしないでもない。甘くみるな! 最後に、同封してある五六枚の薄水色の紙を束ねた手紙、それには女性の手で≪マダム黄昏の私信≫と銘うってあるが、この手紙を報告し次第、あつかましい抒情詩の安売り専門店≪黄昏前夜祭株式会社≫を早速退社させてもらおう!

 

 

 

                               ―マダム黄昏の私信

 つづれ織りのお好きだった

        亜刺比亜文字氏へー

 

 何と名状していいのでしょう! あなたの手紙を拝見して、あたしはあたしの過去の並木道を覚えず涙を零して散策してしまいましたわ。いえ、そればかりか、あなたのお手紙があのベネチアから、そう、既にあたし達にとって遠い追憶のおもちゃ箱に過ぎなかったベネチアから、今、純粋な異郷の人と呼ばれているあたくしへ、そうして常に異郷の人を受け入れない東京という田舎町に居を置いたあたしの夕暮のバルコニイへ届いてきたのですもの……まったくあたしはあなたとお別れしてからもう十年も経ってしまっていたことにとても驚かされましたわ。東京は秋です。しかも純粋な思索には枯葉の音も落ちません。でもあたしは十秒くらいシンミリ考え込んでしまいました。ほんとに十秒くらい! それ以上の思索はいかなる鉄槌のごとき人間の持続力でもってしてもとうてい不可能事であること、そんな現実はあなたなら充分わかってくださるわね。

 さて、あなたのお手紙は、あたしのブロオチでもありブランコでもあったオメガ・オメゴリアについてあたしの知っていることをすっかり話して欲しい、少なくともそういう趣意を伝えてらしたのだ、こんな風に理解してしまってかまわないのかしら。ええ。屹度そうに違いないと思いますわ! でも、でも……あなたって非道いかたね。彼に関しては何もかもが物語めいてしまうことくらいあなたのほうがよくご存知のくせに。

 彼に関して詰まる所、あたしはなんにも知ってはいなかったと告白したからってそんなに責めないでくださいませ。彼のことを思い起こそうとすると、≪脳髄に残された青インキの汚点≫のような幽かな匂いが濛濛と立ち籠めて、不図戸惑ってしまいます。そう、彼の部屋はいつもタバコの煙で朦朧としていたため、あたしの記憶まで奇妙な印象の取違えをしてしまったのかも知れませんけれども。

 あの朦朧さ、その上あの曖昧さは、今にして思えば、彼が所謂≪生活問題≫の完全に消去された淋しい場所から出立していたせいなのではないでしょうか。いえ、そればかりではなく、彼がよく≪超地上≫と言う時、それは自然・事物から離れることを願ったばかりか、精神・宇宙からさえ離れることを切に願っていた、言ってみれば恐ろしく淋しい≪超場所の場所≫を意味していたのではないでしょうか。ひょっとすると彼は余りに否定的だったのかも知れません。例えば彼は≪魂とは愛するものである≫と言いました。この命題に続けてー

 ―愛は言葉が通い合うばかりではなく、沈黙でさえ通い合わねばなるまい。そうでないと愛は存在しない。そうでないと魂は存在しない。故に魂は存在しない。

 憶えているでしょうか。こうした彼の思惟を確かあなたとあたしと二人で≪黄昏の弁証法≫と呼びましたわね。そう、それがベネチアの出来事でした。あの時、はっきりオメガは言ったものです。憶えているかしら?

 ―まったく思惟とは何物をも肯定乃至否定しないための修練に過ぎない。全体思惟が何物かを創造した、そんな崇高な時代があったとでも言うのだろうか。ちェッ! 遊び、遊び、遊び、思惟なんて尻取り遊びさ!

 こんなことまで言ってしまわなければならなかったあの人、教えてください、あの人は笑っていたのでしょうか、それともほとんど泣いていたのでしょうか。

 ―要するに近代人の嗜好乃至思考は≪物≫をのり超えることにあるのだろう。そうだ。彼等は永遠にのり超えようとするのだ。見たまえ。彼等は≪必然の愛≫さえのり超える。だからこそわたしのような≪物≫が生きてゆくためには仮病を発明しなければいたしかたなかった。見よ、わたしは熟睡する不眠症患者だ!

 可哀そうなオメガ! 冗談でよくあたしは彼のことを、

 ―まあ、まあ、まあ、あなたって≪片目の哲学徒≫に過ぎないんだわ。片方の眼底には常にミス・オフィーリア・ベアトリッチェの面影が君臨してるんじゃなくって、そうじゃなくって?

 すると、あの人は暫く瞑想しながらも不意に微笑を浮かべて、

 ―ねえ、おまえ、おまえは小学生時代に学校で無理強いに飲まされたマクリという虫下しを憶えているかい? 無論あのマクリによって幾多の哀れな寄生虫達が死滅したのさ。で、ぼくはよくその事について瞑想に耽ってしまう。ねえ、どうなんだろう。失われゆく寄生虫達の哀歌を唄わんとする詩人は最早いないのだろうか。ぼくは今でも忘れるわけにはいかない。小夜更けて、肛門の辺りをむず痒らせる蟯虫達に抱いたまるで七色の虹のような不安と恥じらいを……

 お懐かしい亜刺比亜文字さま、ですからあの人の思考は言わば≪性器のような思考≫若しくは≪性器になる思考≫だったとも言えなくもありません⁉ だってその証拠にあの人は時偶、≪さあて、今度こそ思考を性器そのものにしてみせてやるんだから≫、そんな口吻さえ洩らしていましたのですもの。こうなってまいりますと、もうあたしなんぞには何が何やら全然わかりかねます。でも、恐ろしい告白になってしまいますけれど、あの人自身何もわかってやしなかったのではないでしょうか⁉ そう、まったくそうに違いありませんわ⁉ だってあの人は殆どの場合口籠りがちで、不図ほんの幽かに、≪ウウム≫、と頷くばかしだったのですから……噴水の音に眠りを奪われたベネチアのランプの下で、あなたとあたしと立った二人きりを相手に、オメガが静かに語ってくれた≪黄昏前夜祭≫という物語、あのお話は聴いていてほんとに涙が出そうなくらい子供染みていましたわね! それにあのオメガが現在を生き抜かんがため港湾労働者として額に汗して働き通したんですから!

 お懐かしい亜刺比亜文字さま、こんな風な私生活までお話しするのは恥ずかしくてしかたありませんが、永遠に失踪してしまったオメガについて最終のエピソオドとしてしたためておきます……さて、あの人とあたしの不思議な性生活に関してですが、ええ、物好きな亜刺比亜文字さまなら屹度この点に充分触れて触れ過ぎになってしまうなんてことはないのじゃございませんかしら? で、あたし達の性生活は誠に≪プラトーの会話≫的なるものとも言えました。全然理由は詳らかにできませんが、あの人は飲食と生殖の折のみまるで子供みたいにはしゃぎ回って手におえなくなったものです。それにあの人はいつもあたしのお尻を捻り潰そうとしました。危険でしたわ。思わずあたしは悲鳴をあげたほどですわ! それでもあの人はいつまでもあたしのお尻に執着していました。あたかもお尻という物質を一本の青ざめたローソクのごとくプッと吹き消そうとでもいうように……あの人にとってあたしのお尻はまったくベネチアのランプに似ていたのでしょうか。今ではあたしにもなんとなくわかる気がいたします。そうして最後にきまって、お尻をプルプルしゃぶりながら、≪アー≫、と間投詞を投げかけ、≪睡魔≫と呟きました。≪え?≫、いつもの風にあたしが問い返しますと、≪睡魔だ≫、そう叫ぶやあの人はそのままバッタリあたしのお尻を枕に眠り込んでしまったものです。そうです。あの人に言わせれば、あたしのお尻なんて≪お尻になる枕≫に過ぎませんでした。なんてあたしは幸せだったんでしょう! 今になってもお尻の窃かな部分からあの人の高鼾が聴こえてくるようですもの! 

 亜刺比亜文字さま、もうこれ以上あの人に関してお話しすることなぞ何もありません。結局あの人の魂をほんとうに理解するのは、あたしでもあなたでもなく、恐らく千年後のまったく新しい魂でしょう。そこであたしの個人的なたってのお願いになってしまいますけれど、あたしがあなたにお別れする前に、あたし達二人してあの人に、

 ―さよなら、ベネチアの落日! さようなら、オメゴリーア!

そうお別れしておきたくなってしまいました。あたしは余りに感傷家でしょうか? いいえ、あたしはとても言いがたくオメガ・オメゴリアを愛しているのに過ぎません。

 はい、これで何もかもすっかりオシマイになりました。今からまた東京のガソリンの匂いを胸いっぱい吸い込んで、ランプを消して、あたしも睡魔に挨拶しようと思います。さよなら、つづれ織のお好きだった亜刺比亜文字さま、お懐かしいおナツかしい亜刺比亜文字さま、さようなら!

                           メランコーリア・ペトロヴナ

 

 

*この作品は、私がちょうど五十年前、二十三歳の時に書いた未発表の原稿である。改稿しようとして読み直してみた。だがそれなりに完成度が高く、また、現在の私には異次元の世界だった。手に余る、下手に修正しない方がいいと判断して、そのまま発表することにした。ただ、若干の誤字などは訂正したことを付け加えておく。

(写真は、四百字詰め原稿用紙五十二枚の作品の書き出し。第一枚目をコピー機でスキャンしたものである)