芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

彼女

 二〇一八年九月四日、台風二十一号によって私の住んでいる潮芦屋地区でも海岸沿いの家が高潮で浸水した。中には床上浸水までの被害も出た。

 その後、高潮対策の防潮堤工事によって、芦屋浜ビーチ側と民家側が内壁と外壁との二重の防潮堤で遮断された。以前とはすっかり様子が違って、それは郊外の真新しい人工的な海浜の風情だった。

 防潮堤工事が完成されてからは、多くの人は内壁と外壁との間のコンクリート道を散

歩することになった。道幅は広く、五メートル前後あるのだろうか。東端から西端までの数百メートルに及ぶ一本道で、南側がビーチ、北側は六甲山を仰いでいる。私は毎日お昼ごろと夕方、ここを散歩している。偶にはビーチに出て水際まで歩き、海を見つめている。

 四月に入って間もない夕。夕とは言っても午後五時過ぎで、もう冬が終わった太陽はまだ西空高く、辺りは明るい。東端の東屋から海を見つめ、西端に向かって歩き始めた。その日は誰も見かけなかった。

 一本道の半ばあたりで一人の女性と出会った。彼女はジャケットのフードを被り、そのうえ、新型コロナ対策だろう、顔の半面を白いマスクで覆っている。

「もしかしたら、ドッグランの運動をやっている方ですか?」

「そうです」

 確かに彼女の質問通り、私は芦屋にドッグランを作る運動に参加していた。その運動の発起人だった。

「わたし、お友達からあなたが書いた<えっちゃんの夏>という本を借りて、読みました」

「……」

「悲しくて、涙がボロボロ、止めどなくあふれてきました」

「わざわざ読んでいただいて、ありがとうございます」

 じっと私を見つめたまま、彼女はマスクをとった。その端正な面ざしは、どこかで会ったような、見覚えはあるのだが……とっさのことでもあり、私にはどうしても思い出せなかった。一礼して、彼女はそのまま東端に向かって歩き出した。私もそれにつられて一礼し、西端の方へ歩いた。

 十歩余り歩いた時だった。彼女だ! 不意に心の底からそんな言葉が込み上げてきた。だが、すぐに背後を振り返ったのだが、東端までの一本道には、誰の姿もなかった。