芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

詩誌「カルバート」創刊号を読む。

 山中従子さんから詩誌が送られてきた。

 

 「カルバート」創刊号 発行・編集 樋口武二 2022年12月8日発行

 

 この詩誌は十二名の作家によって、詩作品を中心に評論やエッセイなどで構成されている。一通り読んでみて、すべて以前詩誌で目にした作家だった。所謂「現代詩」という分野の書き手が少なくなってきたのだろうか。従って、超俗的な精神を養うには「現代詩」はいよいよ貴重な存在になってきた、そう言って過言ではあるまい。現象的に言えば、時代に直情したり迎合したりしない位置、あえてそこに立つことだろう。

 今回、創刊号として出発したこの詩誌の特色は、同人誌形式の運営ではなく、自由参加であって、作家の自由度を100パーセントまで押し上げたことだろう。従って、編集者の意向はほとんどゼロだ、そういっていい。といって個人誌ではない。裏側に回って見れば、編集者の多大な奉仕を直視することもできるだろう。言葉への愛だろうか。

 詩誌を送ってくれた山中従子の作品に限って簡単なコメントを書いてこの拙文を終わりたい。

 さて、山中が今年書いて私が読んだ作品は以下のとおりである。まず、「わたしは観葉植物」(「詩的現代」40号、3月18日発行)、次に「笑う窓」(「詩的現代」41号、6月25日発行)、さらに「ベルクのピアノソナタ第一番を聴く」(「スピリット」27巻、10月5日発行)、そして今回送っていただいた二作品、「夏・庭の一日」、「白馬」。

 上記の作品のほとんどは山中特有の夢や妄想などを想像力を駆使して言語に構成していく散文体の作品群だった。ただ、「夏・庭の一日」だけは他と違って、実在から言葉が現れてきていた。実在なんて言葉を使ったが、おおげさなものではなく、事実存在するもの、それくらいの心の状態を指示しているにすぎない。

 山中は、個人誌「架空二重奏」を出版しているが、私が読んだ限りでは、この詩誌は、日常から湧き出る言葉の方向と、夢や妄想などを想像力を通して言語構成していく方向と、この二方向で成立している。だから「二重奏」、そうなっている。はたして、山中の心の世界で日常と夢や妄想とが不思議な合一を開始したのだろうか。事実存在するものの本来の姿がそうであるならば、「夏・庭の一日」は山中の新しい出発点なのだろうか。

 山中さん、今年一年さまざまな詩を紹介してくださって、楽しい時間をいただきました。ありがとう。