芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

サルトルの「方法の問題」

 先日読んだデヴィッド・クーパーの「反精神医学」、ロナルド・D・レインの「自己と他者」、この論述を読んでいて、彼等より十五年前後人生の先輩の哲学者の名前が出てきた。おそらく彼等が家族という存在を思索する導きの糸として影響を与えたのだろうか。

 

 「方法の問題」 サルトル著 平井啓之訳 人文書院 昭和43年11月5日重版

 

 唯物史観によれば、生産力と生産関係の矛盾によって歴史は発展する。すなわち社会は一定の生産力に対応した生産関係を取り結ぶ。かつて人類が取り結んだ生産関係の基本的な在り方を時系列であげれば、原始共産制、古代奴隷制、中世封建制、資本制、こう分析されている。もちろんこれはあくまで指標であって、さまざまな地域や集団や国家によって、具体的に分析・総合されなければならないのは論を俟たない。

 また、一八四五年前後の英国の産業革命によって資本主義国家が成立した。それは従来の政治権力を排除し、自由競争による経済諸関係を下部構造として、その財政を基盤とした政治組織、所謂上部構造を形成した。ここから、一定の上部構造はその下部構造に対応して成立する、そう結論された。

 さらに、産業革命によって、すべての労働生産物は商品として貨幣によって交換される社会となった。資本主義社会に生きている人間は、自分がまったく無知だと思っていても、余程のことがない限り、お金がなければ生きていけない、餓死する、この事実は痛いほど認識しているはずだ。すべての労働生産物が商品となるためには、従って、労働者自身が商品として賃金と交換され、その賃金によって彼らが生産した労働生産物を商品として買い戻す、この体制が確立することによって成立する。これで労働者は餓死しなくて済むはずだ。これが資本主義の基本構造だった。

 サルトルは、この状況を、人間が疎外された状況だと考えている。「方法の問題」が出版されたのは一九六〇年だが、彼はマルクスの「資本論」などの弁証法的唯物論を真理だと考えている。従って、彼は人間とは何か、この問いに対して唯物史観を外枠として考える立場を肯定している。しかし、社会主義革命を第一義とするあまり、人間を階級関係や経済諸関係などの外枠から客観的に分析するだけで事足れりとするマルクス主義者に対して、それは事実存在している人間を具体的に理解しない硬直化した理論だ、そう批判する。こうした批判はまた、ソヴィエト連邦の最高指導者スターリンが一九五三年に死去し、その後、すさまじいスターリン批判の流れが噴き出した、そうした時代状況に対するサルトルなりの苦闘する姿でもあったのだろう。

 それならば、事実存在している人間を具体的に理解する、それはどのようにして可能なのだろうか。サルトルは、弁証法的唯物論の人間理解の中に精神分析による幼児体験の分析、アメリカの社会学による一定の集団の分析、こうした成果を取り入れることによって再構成すべきだ、そう提案している。そればかりではなく、人間を彼あるいは彼女に与えられた状況から理解するだけではなく、その状況を過去から未来にわたっていかに「のりこえ」ようとしているか、思想=知によってはとらえられない彼あるいは彼女が自由に選択したその「のりこえ」を了解する、ここまでやってきて初めて人間理解が成立するのではないか、彼はこうした実存主義を提唱するのだった。