芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「オリオン」38号を読む。

 松川紀代さんから詩誌を送っていただいた。

 

 「オリオン」38号 編集人 松川・東川 2022年6月15日発行

 

 この詩誌には、東川絹子の詩作品七篇、エッセイ一篇、松川紀代の詩作品が一篇、一篇といってもこの詩は連作で(1)~(9)まで掲載され、おそらく現在進行形なのだろう。それに一篇のエッセイが添えられている。

 以前にも少し指摘したことがあるが、この二人の詩人の言葉はまったく逆方向に向かっている。東川絹子は虚構の方向、松川紀代は実在の方向に向かって言葉が現れてくる。

 もう少し細部を見てみよう。

 東川絹子の作品「縄跳び」は、奇妙な象徴詩だが、業が深い晩年を静かに描いているのか。「噴水」は短い童話めいて、光が砕け、飛び散っている子供の世界が見える。ただ、この光はお握りの米粒で出来ているのだけれど。

 さて、作品「ゆず」は、やはり奇妙な象徴詩か、ゆずのしぼり汁の味から立ち上る幻影を言葉に刻んで、「蝶番」では、すべて存在するものは蝶番によって繋がり、組み立てられている。従って、それは錆びつき、折れ、はずれ、歳月とともにすべての存在するものは倒れ、解体しなければならない。

 作品「恋物語」は、恋といっても、ほとんど女と男が夜ごと織りなす死の舞踏だった。そこで、「悲哀」という作品がやって来る。女と男はまっとう出来なかった愛を、それぞれの半身に残したままこの世を去っていくだろう。ところで、最後の作品「臭い話」は、東川が自ら組み立てた虚構を徹底的に粉砕して真実在へと走り始めた言葉か。三井三池炭鉱労働者の世界を見つめなおしたエッセイ「やがて来る者」もまた同じ地平線を走っているのだろうか。真実在はやがて反復するのだろうか。

 松川紀代の連作「頬杖をついて」はなんの説明もいらない、そのまま、だった。作品としては自分史詩篇、あるいは、私小説風詩集、そう言っていいのだろう。それはともかく、この「そのまま」をどこまで表現出来るのか、私はとても楽しみにしている。エッセイ「友だち」も同一平面に描かれた言葉の地図だった。

 少し気になることがある。森沢友日子さんはどうしたのだろう。「オリオン」の前号までに読んだ彼女の詩は、どことなく不気味な空気が漂っていた。私はその都度、注意して彼女の詩を読んでこのブログにも少しく書いてきた。いったい、どうしたんだろう。