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後藤光治個人詩誌「アビラ」10号を読む。

 詩誌のすべての文章を自分一人で書いている、といって、言うまでもなく他の作家の「引用文」は別ではあるが、その「引用文」を選別したのは自分であってみれば、文章全体の流れの出どころは、ただ一人の「自分」に帰するのだろう。

 

 後藤光治個人詩誌「アビラ」10号 編集発行 後藤光治 2022年6月1日発行

 

 先ほど言った「文章全体の流れ」は、従来の「アビラ」と同じ流れの中で展開している。

 まず、巻頭に「ロラン語録」が掲げられる。そして後藤光治の試作品六篇。次に、ロマン・ロラン断章「ジャン・クリストフ」、「清水茂断章」。後藤光治のロマン・ロランへのあくなき近接には、一種異様とも思える激しい情熱を覚えるのは私だけではないだろう。また、今号は清水茂の詩を四篇収録しているが、これもみなロマン・ロラン大気圏内の出来事ではないだろうか。

 さて、今号の「詩のいずみ」では、詩人杉谷昭人を革命家という側面を紹介しながら論じている。最後は、「鬼の洗濯板」。<メメント・モリ>という言葉から、楽天的な方向ではなく、トルストイの「懺悔」に論及して、悲痛な方向、つまり「死の必然の中に存在する生命の意味」と言っていいのか、畢竟するに生命の意味の不在について論じているのだろうか、すべては「空」だった、と。

 それはさておき、今号の後藤光治の詩を振り返ってみたい。

 今回読んだ詩のうち一篇を除いて、五篇の作品に共通して感じられるのは、静謐で、緻密で、それでいて歳月を閲して到達した高山の希薄な空気に似た晩年期の哀感が漂っている。それぞれの詩を簡単にコメントしてみよう。

 作品「エリーゼのために」では、早逝した姉の遺品、オルゴールのネジを巻くと、バレリーナの人形がドガの「踊り子」のごとく舞い、鍵盤はベートーベンの「エリーゼのために」をたたく。「姉」とはいったい何だろうか。

 作品「楓教室」。学生時代の学園闘争の舞台になったあの教室は、今ははや解体されて姿も形もない。だがしかし、あの頃の自分の思いだけは残されている。いったいあの頃の「生」とは何だったのか。

 作品「風景」は、四十年間同じ場所に建っている我が家の周辺は様変わりして、例えば大正時代からあった二軒長屋などが解体されて高層マンションに変わっている。

 

 風景が

 二重写しになる

 過ぎ去ったモノが見える(本詩第三連1~3行目)

 

 解体され建て替えられた世界の裏側に、かつて存在した世界を詩人は見た。

 作品「乳房」は、工場で働く女たちが休憩時間に汗を拭くため上半身裸になった時に見せる様々な乳房、とりわけその中のひとつ、あるお姐さんの乳房に魅せられた少年時代の思い出、初恋とも言えないささやかなエロスを書いている。

 作品「廃校」は、先祖から代々通っていた小学校が廃校となり、木造校舎は廃墟になって佇んでいる。しかしまだ、村人たちの少年時代の蠢き、校舎から飛び出してきそうな気配さえする。確かにすべては消滅したのだが……背後の山々だけが変わりなく存在している。

 以上五篇は、あえて一言で言えば、追想詩篇と呼べばいいのだろうか。

 これらの詩篇とはこの一篇だけは異質だった。作品「花火大会」。この詩は日本画で言えば、「鳥獣戯画」の世界だった。今後の展開を待ちたい。