芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

工場街の路地にて

 記憶に鮮明に残っているが、ここだ、そう特定できない場所がある……頭の中を流れてゆく映像を見ていて、ふと私はそんな感慨を抱いているのだった。

 損害賠償をされているのでその分野の仕事をしているあなたにぜひ立ち会ってほしい、彼は運転席から私に懇願した。まず損害賠償請求をされている現場にあなたを連れてゆくから、現場担当者に会って詳細を確認してくれ。確かこの辺りだが……助手席に座っている私にたたみかける声が聞こえていた。

 運転席から声はしゃべり続けた……損害賠償を受けているのはボクの経営している工場で、本社の所在はわかっているが、工場が何処にあるかわからないんだ……奇妙な話じゃないか、私は独り言ちた、何故って、自分が経営している工場が何処にあるかわからない、馬鹿げた話だ、まるで茶番だ……だが、私は彼の顔をはっきり覚えていた。四十年来付き合いのある私の顧客で、工場経営者だった。

 狭い路地があちらこちらに混乱して、黒糸が複雑に絡まりあっているようで、また、ほとんどが一方通行の迷路を、宙に浮かんだふわふわした気球の状態で彼は手際よく運転していた。その時だった。不意に比較的広い路地に出た。工場の所在地を確信したのだろう、彼はその路地を猛スピードで走り続けた。前方からは数知れぬ車両がビュンビュン私たちの車両の右側を逆方向に走り抜けていく。数秒後、左側でもおびただしい車両が逆方向に走り抜けていくのを、助手席側の窓から私は呆然と見つめていた。

 この道路は少し広いが、やはり一方通行ではないか、私達は一方通行の路地を逆走しているのではないか、切羽詰まった危機感に慌てだしながら助手席で私がこんな認識に到達した時だった。そうだ、もう何十年も昔になるが、亡妻が運転してこの道路を何度も走ったことがある、こんな記憶がハンドルを握っている彼女の両手とともに鮮やかに蘇ってきたのだった。