芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

ミンコフスキーの「精神分裂病」

 先日、スウェーデンの作家ストリンドベリが精神分裂病だということで、精神病理学による彼の症状の分析を知るためにビンスワンガーの「妄想」という本を読んだ。その折、現存在分析や現象学ばかりか、そもそも「精神分裂病」に関する私の理解不足に我ながら呆れてしまった。そこで、この本を開いてみた。もちろん、一冊や二冊の本だけでこの病の本質を学ぶことなんて出来っこないのは、百も承知の上だが。

 

 「精神分裂病」 ミンコフスキー著 村上仁訳 みすず書房 2001年9月30日改版第3刷

 

 この本は一九二七年に初版が出版され、その後、五章で構成されていた初版に第六章を付加して一九五一年に発行された新版を翻訳したものである。

 さて、著者は、主に、ブロイラーから精神病学を学び、ベルグソンからは生命の本質的現象をいかに研究するかを学んで、こういう結論を出した。すなわち、精神分裂症の基本障碍は、「現実との生ける接触の喪失」である、と。(本書16頁参照)。本書の第5章まで、この基本障碍を根底にすえて、さまざまな症例を交えながら、精神分裂病を解明していく。

 周知の通りクレペリンが「早発性痴呆」という概念で表現した精神病を、ブロイラーは「精神分裂病」という概念で表現したのだった。この変更は、単に言葉を換えて病名をわかりやすくしたのではない。ここは、非常に大切なところであるから、少しくどくなるかとは思うが、本書から引用しておく。

 

 心的能力の恢復不能の喪失としての痴呆なる概念は、すべての治療の試みを断念せしめる。(本書194頁)

 

 つまり、クレペリンの「早発性痴呆」という概念は、患者は痴呆という末期症状にいたって、二度と恢復しない、多年の間、病者にそういう診断がなされてきた暴君的な権威だった。こうした精神医学の状況の中でブロイラーに学んだミンコフスキーはこのように語っている。

 

 この諸症状は決して心的能力の永続的破壊ではなく、むしろ現実との生ける接触の喪失によって限定された、心的能力の偏倚もしくは混乱である。この意味でわれわれは分裂病を方向の病気として規定した。(本書194頁)

 

 「早発性痴呆」は決して心的能力の永続的破壊ではない、ミンコフスキーはこう述べて、更に進んで、論を展開する。

 

 精神病学においては治療可能性の概念はそれ自身治癒的効果を有する。したがって精神障碍を恢復可能性の見地から観察せんとする臨床的疾病概念も同様の効果を有する。(同書195頁)

 

 クレペリンの「早発性痴呆」という概念をブロイラーが「精神分裂病」という概念に改めたと言うことは、この疾病の治療可能性を表現したものであって、また、著者はブロイラーの運営する精神病院から多数の患者が治癒して自宅へ帰った事実を報告している。そして著者は更に続けて、こう言う。

 

 われわれは分裂病概念は精神病学において真に画期的なものであると考える。この概念は長い間痴呆なる観念によって縛られていた病者ならびに精神病医を解放したのである。(本書195頁)

 

 病者ならびに精神病医を解放した、この言葉を味わって欲しい。

 さらに、言葉にこだわるようだが、私は本書を読んでいて気づいた。ミンコフスキーはさまざまな引用をしているが、精神医学以外の分野からは二人の思想家の言葉を引用している。それはこんな言葉だった。

 精神病医は、理性による診断だけではなく、感情による診断、洞察による診断を学ばなければならない。何故なら、人間は理性だけではなく感情などを含めて統合された全体で生きているのだから。そういう趣旨のことを述べて、著者はパスカルの文章を出す。

 

 「真理は単に理性によって知られるばかりではなく、また感情によっても知られる。理性と感情はふたつながらわれわれの教師である。」(本書67頁)

 

 また、ミンコフスキーは彼の「現実との生ける接触」という概念は、ベルグソンの思想とチューリッヒ学派(ブロイラー)の臨床的努力との接合点だと言っている。その際、ベルグソンの言葉を引用しているが、全文ではなくその最終連だけを以下に掲載する。

 

 「知能は常にすでにあたえられたものをもって再構成しようと努めるがゆえに、歴史のかく瞬間に現われる新しきものを逸し去る。知能は予期できぬものを許容しない。それはあらゆる創造を拒否する。このように、繰り返されるもののみに着目し、同じものを同じものに接ぎ合わすことのみに専心する結果、知能は時間から眼をそらすのである。知能は流動するものを嫌悪し、彼の触れるものすべてを固定してしまう。われわれは実在する時間を思惟するのではなくて、それを生きるのである。」(本書78頁)

 

 ところで、ミンコフスキーのこの発言も重要だと私は思うので、指摘しておきたい。ブロイラーによって基礎づけられた分裂性あるいは同調性などの概念は個人を一定の見地から特徴付けたもので、これらの概念を時代や創作の形容に適用するべきではない。(本書149頁参照)。数多くの精神病者の症例の研究から構成された概念を、精神医療を飛び越えて社会や時代や芸術作品の理解に適用すべきではない、そういう趣旨の発言ではあるが、在野の医師として精神病者の治療をもっとも大切にした著者の意義深い見解ではないだろうか。

 最後の第六章は「展望」と題されて、第二次世界大戦数年後、一九五一年に発表された論文であり、興味深く私は読んだ。戦後の荒廃の中で、精神病理学者・精神科医としての著者からの人間存在の本質構造への問になっている。また、その前年、一九五〇年に亡くなった同じ精神科医である著者の妻ミンコフスカ、彼女は癲癇の著名な研究家であるが、彼女の研究を中心に論じている。著者は六十五歳で妻と死別している。第六章「展望」は亡妻への追悼論文なのだろうか。以下に私はこの論文の一端を紹介して、このたどたどしい読書感想文を終わりたい。

 

 言語は日常的あるいは科学的に慣用されたままわれわれは使用している。そして、言語の概念化の上に科学が築かれている。すなわち、言語は概念的思考の局面だけに限定されて使用されていく。従って、言語は生的な事柄の表現という役割から遠ざかっていく。その反動で、言葉の原始的に充実した、生きた現実を表現する言葉、それを発見する必要が生じてきた。(本書255~257頁参照)

 

 人間は世界を知覚し思考するためにではなく、世界の中に生きるようにできている。分裂病にかけているのはちょうどこの点なのである。(本書259頁)