芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

ビンスワンガーの「妄想」

 著者は、一九六六年二月五日、八十五歳でこの世を去るが、その死の前年、この論文を発表している。

 

 「妄想」 ビンスワンガー著 宮本忠雄・関忠盛共訳 みすず書房 2001年6月20日新装第一刷

 

 この本は、言うまでもなく、「妄想」とは何かをこの当時の精神医学の立場から解釈したものだった。だが、精神医学の門外漢の私がこの本を開いた理由は、ただ一点、ストリンドベリの症状分析をやっているからだった。私には私なりに次は何を読むか? そういった読書への関心の流れがあって、その流れの中でストリンドベリの作品も若干読む必要に迫られた。また、その流れの中で、精神分裂病者としてのストリンドベリを分析しているヤスパースの「ストリンドベルクとファン・ゴッホ」を読んだ。一九二〇年代に発表されたヤスパースの論文はビンスワンガーの本書「妄想」でも引用され、妄想研究の古典だと紹介されている。不思議な縁で、私の読書世界は細い網の目を描きながら広大な膨張宇宙を形成していく。

 ビンスワンガーは人間という存在をこのように理解している。ちなみに、人間理解のために恐らくハイデガーから来ているのだろう、「現存在」という言葉を使っている。

 

 現存在は、存在者のただなかにあるのみでなく、存在者にたいして、また同時に自分自身にたいして、また共同現存在にたいして「みずからを関わり合わせる」存在者である。(本書13頁)

 

 こうした「現存在」から、どうして「妄想」が発生するのか、専門家ではない私であってみれば誤解を承知の上で、以下簡単に素描しておく。

 ビンスワンガーは従来「妄想」は現存在の実存的欠陥から生じるという考え方に立っていたが、さらに一歩進めて、現象学的な経験構造の欠陥という考え方に到達したのだった。すなわち、私流にわかりやすく言えば、実存構造という人間主義的な枠組みを取り払って、出来る限りあるがままの妄想を把握しようと企図したのだろうか。

 やはり素人考えに過ぎないが、私が何ものかを経験する場合、この私の現在の中に存在する何ものかを認識することが出来るのは、過去の経験の記憶との結びつきの中でこの何ものかを直感し、必要な場合、この何ものかとの関係をこれ以後どうするのか、すなわち、未来へと結びつけていくのだろう。もちろんこういう作業は、年齢を重ね、経験を重ねることによって、ほとんど無意識に近い状態で感知し、判断し、未来へ向かって行為しているのだろう。赤ちゃんの状態と、この文章を読んでいるあなたの状態を比較すれば、自ずとこうした認識の在り方は諒解されるはずである。

 昔から論じられてきた過去・現在・未来というこの三層になった考え方を、ビンスワンガーは更に現象学的に、感覚・記憶・想像の三つの分解しがたい契機に分節している、おそらくこう言った原則を採用しているのではないだろうか。従って、この感覚・記憶・想像の三つの分節のいずれかの固化・欠陥によって「妄想」が現存在に発生する。

 さて、<症例アリーヌ>(本書78~115頁)の場合には、電気的光線の人間化、すなわち、「考える光線」や「喋る光線」が出てくる。あるいは、「考想化声」といって、自分の考えが声になってきこえる。味覚や嗅覚、触覚における幻覚ばかりか、とりわけ、「脱人格化」の症状、自分自身が他人や部分的には全世界に属する症状を呈する。アリーヌの場合、首から下は自分自身だが、頭蓋は脳とともに全世界に属している。

 このように、他人や全世界の「優勢」は「私」の統一の構成の挫折によって発症する。感覚・記憶・想像による統一的世界構成の挫折だった。アリーヌは、電気―機械的な出来事の記録装置のような状態となった。

 次に、<症例シュザンヌ・ウルバン>(本書116~144頁)の場合をビンスワンガーは分析している。先に分析したアリーヌの場合は、電気的光線などによる「物理的」迫害、他人や全世界による「脳」の物理化、機械化、物質化という症状だった。一方、シュザンヌ・ウルバンの症状は、自分の自由意志からではない犯罪者であるという苦しみ、そして、犯罪者としてまわりから知られている苦しみだった。言わば<中傷妄想>が現われ、シュザンヌ・ウルバンは人間的な出来事(拷問)の記録装置のような状態になる。中傷妄想に被害妄想および迫害妄想が加重され、シュザンヌ・ウルバンには自分の全家族を含めた「受難者伝」妄想が展開された。

 最後は、<症例アウグスト・ストリンドベリ>(本書145~235頁)である。この症例に関しては、十九世紀末に書かれた彼の作品「地獄」と「伝説」を中心にして分析される。ビンスワンガーはストリンドベリのこんな言葉を引用している。

 

 「たえざる動揺のうちにあって私にたしかだと思われることがひとつある、そしてそれは、見えざる者が私の教育に手をつけているということである。」(本書150頁)

 

 「自然におこることではなく、見えざる手が彼の宿命のうえにおかれているのである。」(本書151頁)

 

 そして、具体的な個別的人物としての人間と見えざるあるいは未知の人格をもたない力とむすびつけるものは、意図であり、「意識的な、考える、全知の意図」である。(本書160頁参照)

 ただ、ビンスワンガーの論述を読んでいると、ストリンドベリの妄想は極めて複雑であり、現存在分析や現象学に無知な私にはよく理解できなかった。私は思うのだが、ヤスパースもビンスワンガーも直接ストリンドベリと面談し、経過観察して、彼の精神を分析しているわけではなく、彼の作品から推定しているに過ぎない。精神医学は医学である限り、診断および治療行為全体を想定して患者と面談するのであろう。いくら事実を基本において創作された告白文学の作品だといっても、作家にとっては自分の経験した事実をそのまま語るのではなく、言語芸術として創作する行為に重点が置かれるであろう。当たり前の話だと思うのだが、作家各自の独特な美意識の働きよって事実は添削され創作されるだろう。従って、文学作品によって作家の精神上の症状を正確に分析・診断するには、非常な困難が伴うのではないだろうか。素人判断の無責任な発言ではあると承知の上で、敢えて私見を書き添えた。

 それはさておき、この本の中には、ストリンドベリが強く影響されたスウェーデンボルグとバルザックの作品「セラフィタ」が出てくる。読みたい本がわんさかあるので予定は未定だが、いつかまたバルザックの「セラフィタ」を再読しようと思う。