芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

ジョージ・オーウェルの「カタロニア讃歌」

 縁というものは不思議なものである。

 スペイン人のホルヘ・センプルンの「ブーヘンヴァルトの日曜日」を読んでいて、ペルー人のセサル・バジェホという詩人を初めて知り、先日「セサル・バジェホ全詩集」を読んだ。その中に、詩人の死後に出版された「スペインよこの杯を我から遠ざけよ」という詩集が収録されている。彼は一九二〇年代後半からマルクス主義に強く影響されモスクワに三度訪れている。また、ペルー共産党フランス支部に入党までしている。そして、一九三六年七月十七日にスペイン内乱が勃発すると第二共和政の反ファシズム側の支援活動もしている。この活動を通して先程あげた「スペインよこの杯を我から遠ざけよ」が書かれた。

 一方、その頃、ホルヘ・センプルンは第二共和制の外交官の父を持ち、一九三九年、フランコ政権に敗北した共和国スペインをセンプルン一家は脱出、フランスに亡命した。まだ十五歳だった。その後、彼はスペイン共産党に入党、ナチス・ドイツと闘う反ファシズムのレジスタンス運動に参加、ゲシュタポに逮捕され、ブーヘンヴァルト強制収容所に収容される。

 この二人に共通するスペイン内戦は、おそらく第二次世界大戦の前哨戦とでも言えるものでもあった。というのも、もし、イギリスやフランスが積極的にスペインの第二共和政を支援して、フランコを支援していたムッソリーニのイタリアやヒトラーのナチス・ドイツと争っていれば、フランコ政権は打倒され、ひょっとしたら第二次世界大戦は起こらなかったかも知れない。もちろん、歴史に「もし」は存在しない。現実に第二共和制を支援したのは、スターリンが指導するソヴィエト連邦とメキシコだけだった。

 

 「カタロニア讃歌」 ジョージ・オーウェル著 橋口稔訳 筑摩叢書 1985年5月30日初版第15刷

 

 前述したセサル・バジェホとホルヘ・センプルンは、ソヴィエト連邦を中心にした第三インターナショナルのコミュニストだった。ホルヘ・センプルンは一九六四年に理論闘争の末、スペイン共産党を除名されてはいるが。それはともかく、イギリス人のオーウェルはまったくの無党派だったと言っていい。

 スペイン内戦に義勇軍として参戦したオーウェルは、前線でファシスト軍から首を撃ち抜かれたが、弾は「ほんの一ミリというところで」動脈をはずれ、九死に一生、奇跡的に回復して帰国している。そして、本書をまだスペイン内戦が終局していない一九三八年四月に出版、これほどの名著が初版千五百部のうち九百部しか売れなかった。売れなかった原因として、フランコのファシズムと闘っている第二共和制を支援するソヴィエト連邦を厳しく批判しているため、この当時のマスコミから相手にされなかったことが大きな原因の一つではないかと思われるが、詳細は各自直接に読んでいただきたい。

 さて、オーウェルは一九三六年の十二月下旬にスペインのバルセロナに到着するが、ここで彼はその後の人生の根幹を決定づけるといってもいい体験をする。その頃のバルセロナは、労働者が蜂起して、人間らしい自由と平等をめざす労働者を中心にした共同体が形成されつつあった。この共同体は彼がそこで生きた六ヶ月前後で消滅していくのだが、そして共同体を弾圧したのが他でもない第三インターナショナル系のコミュニストの支配下の警察権力だった。そのうえ、コミュニスト系のマスコミは事実を捏造した記事を書きまくって、所謂「トロツキスト」の弾圧を正当化するのだった、

 この本には、スペイン内戦が終局して第二共和制が崩壊後、一九四二年秋に書いたオーウェルの「スペイン戦争を振り返って」という論考が併せて収録されている。この文章を読んでいても、やはりオーウェルの考え方はキレイ事ではなく、労働者が中心になって民衆が蜂起し、富裕層を打倒して、下層階級の人々すべてが本来の人間らしい生活を獲得する時を待ち望んでいる。それが一万年後ではなく、せめて百年後にはやって来て欲しい、彼はそう言っている。百年後、この文章は一九四二年に書かれているので、もしオーウェルの予言が的中すれば、二〇四二年に、労働者を中心に民衆は蜂起し、富裕層を打倒し、下層階級の人々でも人間らしい生活が出来る共同体がやって来るはずである。