芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

レーニンの「国家と革命」

 近未来の物語、といってそれが今世紀のことか二十二世紀のことなのか、はたまた二十三世紀にやって来るのかわからないが、この物語の主題は「国家の死滅」だった。

 まずこの本は過去の歴史を大局的にこう表現している。―従来の歴史に登場したさまざまな制度、つまり奴隷制、農奴制、私たちが住んでいる資本制はみな、富者と貧者の二大階級を中心にして成立している。そしてこの階級制度を維持するために、当然予想される貧者側からの不満・反抗・反乱・蜂起を抑圧するための権力機構、常備軍・警察・官僚を軸にした所謂「国家」が形成された。

 この本では、おおまかに言ってしまえば、上述のごとく国家は概念されると思うが、さらにかく概念された「国家」の近未来における「死滅」の物語をこの本は語り続ける。

 

 「国家と革命」 レーニン著 宇高基輔訳 岩波文庫 昭和42年6月30日第14刷

 

 ただ、この本は一九一七年のロシア革命のさなか、その年の八月から九月にかけて書かれている事情もあって、著名なロシアの革命家でもある著者は、ロシアにおける「二月革命」、これをブルジョア革命だと分析して、この革命をさらにプロレタリア革命へと転化すべく人民の武装蜂起によってブルジョア政府を転覆せよ、そう熱烈に煽動する。

 かくしてプロレタリア革命後の世界のビジョンが展開する。すなわち過渡期の国家、プロレタリア独裁による国家の特徴だが、ブルジョア国家とは逆に、この国家は多数の貧者が少数の富者を抑圧する権力機構、具体的には武装したおおぜいのプロレタリアートが少数のブルジョアないしその関係者を暴力をも辞さず弾圧し、その結果、彼等ブルジョアないしその関係者が消滅すれば、武装したプロレタリアートが存在する必要性もなくなり、ここに階級は消滅し、国家は死滅する。プロレタリアが独裁する社会主義国家から共産主義に移行する中で理論的には国家は死滅するのだった。

 もちろん、共産主義社会がいつ成立するのか、それはブルジョア国家を粉砕し、プロレタリア独裁国家樹立後、社会主義建設の進捗状況に対応するのであるから、逆に言えば、もし社会主義建設が正常に進捗しなければ、せっかくのプロレタリア革命が成功しても共産主義社会は惨めな夢想と化す恐れがあるのは、論を待たない。そうだとすれば、結局、この本は人間が書いたもっとも現実化できそうな「ユートピアの書」だったのか?

 余談になるが、マルクス主義哲学者ルカーチが「批判的リアリズムの現代における意義」(ルカーチ著作集第二巻収録)で主張する社会主義リアリズムの傑作、ショーロホフの「静かなドン」を読めば一九一七年のロシアにおける「十月革命」以後のプロレタリア独裁派の「赤軍」とそれに対抗するブルジョア的「白軍」との熾烈な内戦の一端がうかがえるけれど、ルカーチの主張をわかりやすく表現すれば、「社会主義リアリズムの文学」には「未来」があるが、「ブルジョア文学」には現在を維持、あるいは場合によっては過去へ後退して、そこには「未来」がない、この考え方を根底にしているのではないか。革命的な考え方には美しい未来が、ブルジョア的な考え方にはこの現在をいつまでも維持したい、いや、美しい過去へのロマンの匂いが漂っているのではないか、オーデコロンがしみわたるアルマーニのコートやシャネル五番の香りが。

 ロシアのプロレタリア革命後の歴史は周知の通りだった。赤軍の勝利、ソビエト連邦の成立、本書の著者レーニンの少し早すぎた死去、スターリンの一党独裁を経て、一九九一年冬、共産主義世界を目指した社会主義国家ソビエト連邦は崩壊する。ここに七十年余りを費やし、二十世紀末、この著者が著わした「ユートピアの書」の実験は破綻して、最終頁は閉じられてしまった。

 だが、性懲りもなく、私は青年期に夢想した私なりの「ユートピアの書」をもう一度牛のごとく反芻し、事実私は丑年生まれで五月の牡牛座の下で産声をあげたのだが、それはともかく、さらに粘り強く、夜も寝ずに昼寝して、あるいは、緻密に、時に大胆不敵に、あるいはまた、想像の極北まで一心に走り続け、ボクのユートピア、ボクの絶対自由を書き続けたい、ひそかにそう誓っている。