芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

福永武彦の「死の島」

 ボクは初めて福永武彦の小説を読んだ。何故今まで読まなかったかという理由は後ほど書くことにして、読むに至った理由は、今年の一月からずっと読み続けている所謂「原爆文学」のおかげで、この小説を読むことが出来た。

 

 「死の島」 福永武彦著 新潮文庫上 昭和52年2月15日二刷

             新潮文庫下 昭和52年2月20日二刷

 *この作品は昭和46年9月及び10月に河出書房新社から刊行されたもので、この文庫出版の際、著者は加筆訂正している。ボクは初版本は読んでいない。

 

 福永武彦という名前を聞いてボクが思い出すことと言えば、まず、一九六三年に人文書院から刊行された「ボードレール全集全四巻」(第四巻のみ一九六四年に刊行)の編集者であったことで、ボクの若き日の読書の貴重な思い出である。この全集でとりわけ克明に印象に残っていることと言えば、「人工の天国」という作品で、言うまでもなく、ド・クインシーの「阿片常用者の告白」の影響の下で書かれた薬物等の体験報告書だが、妖しい幻覚の世界に読者を引きずり込んでしまう言語吸引力を、ボクは覚えた。この当時、つまりボクの二十歳前後の頃のことだが、ボクはアンリ・ミショーをかなり読んでいて、彼の薬物体験報告書の幻覚に魅せられていた。そういうわけで、「阿片常用者の告白」から始まり、「人工の天国」を経て、ミショーの「みじめな奇蹟」や「荒れ騒ぐ無限」に至る幻覚世界を貴重な人間報告書として耽読した記憶が、まだボクの脳裏に鮮やかに浮かんでくる。これらの報告書は、薬物等によって「この世から遠く離れて」幻覚世界に恍惚として没入するのだが、やがてこの世にボロボロになって引き戻されて、俺にはこの世以外に住む場所はどこにもない、痛切に彼等はそう思い知るだろう。

 もうひとつある。加藤周一や中村真一郎とともに定型押韻詩「マチネ・ポエティク」の運動に参加していたことである。やはり、ボクの若き日、彼等の詩は若干読ませて戴いたが、率直に言えば、面白くなかった。それ以上に強く言えば、人それぞれだとは思うが、少なくともボクの心はまったく響かなかった。だから、この読書経験が理由で、最初に述べたとおり、その後、これらの人々の作品をボクは一行も読まなかった。

 さて、本題の「死の島」についてだが、たった一日に進行する出来事を、登場人物それぞれの過去の時間や・小説の中で男性の主人公が書き続ける小説の時間や・広島の被爆者の女性の主人公が内部告白する時間などが見事にコラージュされて全体が構成されている。厖大な言語構成体の美的結晶だ、ボクはそう思った。定型押韻詩を捨てて、彼独自の形式美の言語世界を打ち立て、ジョイスの「ユリシーズ」に拮抗する作品を完成させたのだった。

 ただ、ボクには、ひとつだけ、懸念が残った。何故、被爆者の女性が登場するのか。すべての存在は非存在である、すべては虚無である、このテーマを書き尽くすために、なぜ被爆者が登場しなければならないのか。被爆者を虚無という観念と結合させる積極的な理由は果たして何か?