芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

黄山

雷雨が去った直後、無錫蘇南国際空港に着陸した。7月7日午後2時過ぎ。この時期、江蘇省南部や明日訪れる杭州では雷降雨が多い。日本では雷雨だが、中国の空港の掲示板では雷降雨と表現されている。日本の梅雨に似て、当たり前だが東洋の同じような緯度にある場所なのだから、じっとしていても全身汗で湿気てくる。

そのままバスで長広渓湿地公園へ。それから夕食は「無錫排骨」。豚の骨付きバラ肉を煮たものだが、ウマイ。どうして日本人は中国人を蔑視するのだろう。こんなにウマイのに。白人に蔑視されているからか。どうして中国人は日本人を敵視するのだろう。戦争で日本人に勝ったのに。今回の現地ガイドKさんやカメラマンSさんはトテモステキだった。おそらくKさんは30代男性、Sさんは20代女性だろうが、個人情報は保護されるべきだろう、よって詳細は言わない、繰り返すがトテモステキな若者だったと言っておく。日本は本気でもう一度中国と戦争したいのか。そして繰り返すが「無錫排骨」はウマイ。

その夜、南禅寺。寺の前の広場で中高年の女性が中心になって、日本の盆踊りに近いダンスを踊っている。その奥にある船着場から、杭州から北京にまで続いている運河を下る。万里の長城もそうだがこの運河も果てしなく長い。そのほんの一部だけを遊覧したのだが、両岸が唐時代の雰囲気を残した紅い提灯に彩られた水上を行く。船内ではかつて尾形大作が歌った演歌「無錫旅情」が何度も流れている。

翌日。太湖遊覧。それまで降っていた雨が乗船する時、不意に止んだ。琵琶湖の3倍以上もある太湖を船はゆったり渡っていく。甲板に出てみると、やはり全身湿気。太湖は淡水の真珠を特産する。家内は真珠クリームと、イスラエルで買った銀の首飾りに付ける多少ピンク色の真珠のペンダントを買っている。

江蘇省の蘇州市。春秋時代の呉の都。五代十国時代の越の都。留園は見学したが、前に遊んだ時に立ち寄った寒山寺にはいかず、虎丘塔も車窓から眺めただけだった。じっと見つめていると、いつのまにか十数年前を思い出して、とても懐かしい気持ちがあふれてきた。蘇州は絹織物が有名で、僕は白と黒の絹糸で刺繍された水墨画、家内は絹の寝具を買う。

淅江省の省都、杭州市。蘇州から杭州へバスで移動中、突然激しい雷雨。7月、杭州では雷雨が多く、家々の屋根には避雷針が取り付けられている。僕等は見た。高速道路に並走している新幹線の高架の先で一本の光線、轟音、落雷、噴煙。
7月9日。西湖では蓮の花が咲いている。マルコ・ポーロの東方見聞録。西湖では、白蛇伝の白素貞が入水したとか、中国四大美人の一人、西施が入水したとか、怪しい伝説が溢れている。淅江省から安徽省へ。屯渓で昼食後、宏村。400km余りを走ったわけであった。宏村とはどんなところか、インターネットで検索していただければ写真入りで詳細に解説している。それはともかく僕はガイドに訊いた、「宏村の南湖や月池でアヒルが泳いでおり、川には鴨が群れているが、あれは食用ですか」「そうです」。

宏村からふたたび屯渓へ。盆地だから、やはり全身湿気。バスは山間部を走る。両サイドの山肌には、茶畑がえんえんと続いている。いわゆる「毛峰茶」。かなり急斜面でも茶畑になって、どんなふうにして茶を摘むのか、ハーケンでも打ってロープにぶら下がるのか。

7月10日。黄山。人民解放軍であれ、日本軍であれ、英国が代表する西洋の列強であれ、彼等は中国の遺跡を破壊したのかもしれない。留園は日本軍の馬小屋になっていたと聞く。僕は、中国の雄大な歴史の流れに比較して、意外に遺跡が少ないのではないかと思っている。おそらく破壊されたのかも知れない。だから黄山や九寨溝のような自然が観光の中心になっているのかもしれない。

僕は7月7日に中国に来た。タナバタ物語の発祥地である黄山。また、急峻な山岳地帯は水墨画の原形でもあるだろう。僕の旅はここで終わる。後は上海へ出て、帰国するのだろう。おやすみ中国。おそらく来年まで。全身湿気。