芦屋芸術|芸術誌・現代詩・小説

瞑想劇に溺れて

 スナックのカウンター席に座って、ひとりぼっちでウイスキーの杯を重ねながら、仮に百個の歯車で構成されている円筒形生命体を脳裡に浮かべてみた。この円筒は全身を前後左右に揺すぶり、グラグラうごめかせて移動している。

 もしこの生命体が機能不全に陥るとすれば、はたしてどんな異常が発生しているのであろうか。

 例えば、ただ一個の歯車の欠陥、欠落、故障、不具合、経年劣化などで、この構成物全体が機能不全に、つまり廃物になるのだろうか。それとも、三個か、五個か、いったい何個の歯車が異常になれば廃物へと転化するのだろうか。

 言葉の定義を更に厳密に規定するならば、たとえ廃物化してもこの百個の歯車の構成体の生命は存続しているのではないか。一例をあげれば、円筒が横倒しになってもはや起きてこない、多少人間的な表現を許していただければ、所謂「寝たきり」状態になったとしても、まだこの円筒体は生きている、そう判断すべきではないだろうか。やはり、廃物化と死物化とは、一線を引かねばならないだろう。

 だったら、死物化していると判断するためには、百個の歯車の内、いったい何個の歯車が使用不能になった状態なのだろう。二十個か、いや、それとも、三十五個の歯車だろうか。

 

 問いは果てしなく続いた。三日三晩、彼はベッドに仰向いたまま、眠ることが出来なかった。彼は自分に厳しく問うのだった。今の私のこの寝たきり状態は、はたして廃物か、それとも既に死物なのか。