芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

マーヤー、あの女だろうか

 胸騒ぎがして目が覚めた。午前三時。まだ二時間余りしか眠っていない。もう明け方だと思っていたのだが。

 だとすれば、ほとんど眠らなかったのだろうか。女が出て来た。見覚えはなかったが、なぜか激しく心が惹かれてしまった。待てよ。昨夜、カウンター席の隣で飲んでいたあの女ではなかったか。派手な衣装だった。胸元まで見える白と銀とでまだらになったドレスで、身にぴったり張りついて、多少豊かな肉に飾られた体の線が浮かびあがっていた。三十代後半だろうか。だが少女めいた香りを残してはいるが、もう五十を少し過ぎているのかもしれない。手慣れた感じで、冗談を交え、彼を翻弄して笑わせ喜ばせていた。

 カウンター席とソファー席の間は数組の男女がチークダンスを静かに踊るくらいのスペースがあり、その奥は小さなステージになっている。ステージではマイクを持って客がカラオケを楽しんでいる。店内はほの暗い。

 いつの間にか、彼は隣の女の肩を抱きしめ、ステージでデュエットをして遊んでいた。時に二人は見つめあい、既にやり過ごしてかなり酔っ払っているのだろう、微笑みさえ交しあっていた。

 この店は午前零時が閉店で、彼の自宅に割合近い地区に彼女は住んでいるので、タクシーで家まで送ることになった。いつも何曜日ごろに来るの? あなたの電話番号、ママ知ってる? ママに聞いていい? 矢継ぎ早にそんな質問を繰り返しながら彼女は下車し、車の側に立って笑顔で手を振っていた。

 あの女だろうか。しかし、ほんとうに彼女とは初対面だったのだろうか。どこか十年前にこの世を去った亡妻の面影が刻まれてはいなかっただろうか。いや、もう少し冷静になって昨夜の状況を思い出してみよう。成程。はっきり記憶に残っている。昨夜カウンターの左隣に座っていたのは、亡妻だと断言できる。ただ不可解なのは、妻は酒が飲めなかった。せいぜい無理をして付きあったとしてもビールをコップ一杯が限度だった。けれども間違いなくあの女は何度もウイスキーグラスを傾けている。だったら、この十年間で妻は酒が飲めるようになったのだろうか。もしそうだとするなら、昨夜のカラオケスナックの出来事は、すべて幻に違いない。