芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

卒業

 真っ暗な高速道路を軽乗用車で突っ走っている。夕刻になって冷蔵庫がほとんど空なのに気づき、あわてて晩御飯の食材を求めて彼は飛ばしているに違いなかった。しかしわざわざ真っ暗闇を走る危険を冒して高速道路のサービスエリアを探し、いったい何を買おうとしているのだろう。

 道路の右脇の狭い駐車場に数台の車両が停まっている。闇に浮かんだ店舗。といっても、表から見た限りでは無人で自動販売機が立っているだけ。モルタル造平屋建ての粗末な建物だが。

 何人か先客がいる。前方から一台の車両が出庫しようとして、彼の車の前で右折して闇の中へ消えてゆく。彼は下車して店へ急ごうとしたが、

「電話が鳴ってるよ」

 背後から声がする。息子の声だろうか。それならば息子は今まで同乗していたのか。とりあえず車内の後部座席に放り出していたスマホをつかんで彼は左耳へ押し当てる。

 太い厳しい声の男。高圧的な態度で威嚇しながら何やらまくしたてている。どうやら彼は代理店で、高圧的な男は保険会社の担当者らしく、声から判断するとかなりの年配で五十代か六十代か。

「どこの保険会社ですか」

 彼は必死になって問い詰めるが、かえってそれが悪かったようだ。いきなり怒り始めた。キャンペーンをどうするつもりだ。寝食を忘れて協力を惜しまない、お前との契約書ではそうなっているんだぞ。おまえは契約違反を犯す気か。さあ、ならば刑事事件だ! 協力するのかどうか、はっきりした態度を表明しろ。そんな趣旨の恫喝まがいの演説をえんえんとがなりたてている。

「だからどこの会社のキャンペーンなのですか。人違いじゃないんですか」

 頭が混乱して彼はそう口走ってしまい、火に油を注いだのだろう。高圧的な演説はもはや終わろうとする気配さえなく、果てしなく続いている。

「お前からは見えないが、俺からはよくおまえが見えている。もしスマホを切るような不誠実な行為に出たあかつきには、ただちにお前の心臓を背後からぶち抜く。覚えていろ!」

 もしかしたら……彼の脳裏に一瞬こんな考えが閃いた……左耳にスマホを押し当て、闇の路上を行ったり来たり彷徨いながら、正体も意味も不明の電話の声と永遠に議論し続けて、このまま人生を卒業するのだろうか、あの世に向かって。