芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

狂いゆく脳

 なんの変哲もない話をしよう。 

 ある女性と食事を共にした後、駅の改札口で別れた。スマホで時間を見たらまだ九時過ぎだったため、このまま帰宅するつもりだったが心がわずかに揺らいでしまった。何故かこのまま帰ってしまうのが心残りだった。時折訪れるスナックの方へ彼の足は引きつけられていくのだった。

 なんの変哲もない話だと、彼は思っていた。

 扉を開けると、七八人の客が騒がしくカラオケで歌ったり大声でおしゃべりしたり。ほとんど轟音がやって来た。コの字型になったソファに陣取って、夢中のさなかだった。彼等を背にして誰もいないカウンター席に一人座り、ポツネンと彼は沈黙へ落ちていった。

 目を閉じるとあの女の顔が浮かんできた。何度もウイスキーグラスを傾けていた。なぜこの体はスナックに引きつけられたのだろう。寂しかったのか。いや、そうじゃなかった。食事の時の酒で酔っ払ってしまったのか。確かにこの数日間飲む機会が続き、酔いやすくなっていたのかもしれない。だが、そうではない、彼の頭はそう呟いていた。また、あの顔が浮かんできた。

 だとしたら、彼はこうも考えてみた、いま、スナックのカウンター席に座っているのではなく、我が家のベッドに寝ころんで夢を見ているのだろうか。きっとそうに違いなかった。このまま明日の夜明けまで、この席に座りながら、俺の頭は自問自答を繰り返し続けるのではないか。永遠に続いている自問自答の裏側で、あの女の顔が浮かんでいる、そんなユーチューブが流れている。

 音ひとつ聴こえない。脳の左側から徐々に崩れていくのが、彼の眼前に鮮明に浮かんでいた。その映像に重なりあって、脳と二重になって、あの女の顔もヌルヌルしたりズルズルしながらグジャグジャ崩れていくのだった。