芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

佐東利穂子「SHE」

これまでダンスを観るために劇場まで足を運んだことなどなかった。楽器よりも声楽、声楽よりも舞踊はより人間の肉体や生理へ接近するため、僕の脳の中はどろどろになるのだった。

しかし僕は、2010年12月11日、「平山素子 ストラヴィンスキー・イブニング」を観るため、兵庫県立芸術文化センターまで。

ストラヴィンスキーの音楽とダンスと。第一部は「兵士の物語」、第二部は「春の祭典」。

「春の祭典」といえば、かつてニジンスキーが踊って、既に伝説になっているだろう。といっても僕のニジンスキーに関する知識といえば、高校生くらいの時だったか、英国のコリン・ウィルソンのベストセラー「アウトサイダー」もしくは「続アウトサイダー」の中で、ニジンスキーという男を知ったばかりである。もう四十年以上昔の読書の記憶に過ぎないが、確かニジンスキーは舞台の上で無言のまま立ち尽くし、ふいに踊り始めた、ふいに空中に浮揚するかのごとく飛んだ、言ってみれば自分という限定された身体から超越せんと意志して。

今回の「春の祭典」は二台のピアノを二人のピアニストで演奏され、それもステキな演奏だった、平山素子と柳本雅寛が踊るエロスとタナトスの象徴劇、言いかえれば豊饒と犠牲の表現であり、女と男のほとんど宗教的エクスタシーへとトランスする身体表現から、最後に舞台の底、闇の冥界へ二人は下降していく。彼等は夏のために死んだ。

2011年1月15日、ふたたび兵庫県立芸術文化センター。佐東利穂子「SHE」。

ちょっとおおげさな言い方だが、おそらく時代が変わったのだと思う。現代の成人した男性よりもむしろ女性の方が、カフカをより深く経験しているのではないか。少なくとも僕は佐東利穂子の身体表現を見て、そう直感した。かつて挫折した男性は、いま、時代に迎合せんとしている。時代が変わったんだ。

佐東利穂子がオコリを起こして全身を痙攣させる身振り、恍惚としてカオスする身体、聖歌を背景に光に向かって延びんと意志する右腕、しかし、その聖歌も終節で破綻して、彼女のすべてが崩れていく。僕はもう一度彼女の「SHE」を見たい。