芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

南方熊楠随筆集

 南方熊楠を知ったのは、稲垣足穂の作品の中だった。稲垣足穂大全全六巻が現代思潮社から出版されたのは1969年から70年にかけてだから、そして当時にしては高価な本だったがどうしても読みたくて全巻買った 、ボクが二十一歳の時。

 南方熊楠も読みたくなって図書館で読んでみたが、漢籍仏典が原文のままボンボン引用されていて、手に負えなくて、ボクは本を閉じた、こりゃダメだ、ボクのような浅学の徒には余りに敷居が高い……。

 

 南方熊楠随筆集 益田勝実編 ちくま学芸文庫

 

 数年前、本屋さんで買って、そのまま書棚の片隅で眠っていた本が、今、眠りから醒めた。漢籍仏典が読み下しになっていて、これならボクにもなんとか読める。が、ボクに批評なんてとても出来ない。彼の厖大な文献の記憶が 、民俗学風の作品の中にちりばめられている。知のコラージュと言っていい。おそらく彼の脳髄に宇宙図があって、その図面の一部を言葉にして作品を組み立てているのか、途方もない世界に足を踏み込んでしまった気持がした。

 南方熊楠の作品の中で、親近感を覚えるものがあった。まったく個人的な事情だが、ボクはワイフを亡くして三十三日目の夜明け前、我が家のダイニングの東窓の飾り棚に置かれた彼女の骨壷と遺影の前に、小さな青い光が膨張して三十センチ大になり、ふたたび収縮して、消滅した。この体験は別のところでも書いているのでこれ以上は触れない。

 ところで、南方熊楠の本書に収録された「履歴書」の中に、那智山にこもって動植物と心理学を研究していた 話が出ている。その時、おそらく彼は幽霊を見たに違いない。幽霊と幻(うつつ)を区別して、彼は言う。

「幽霊が現わるるときは見るものの身体位置に関せず地平に垂直にあらわれ申し候。しかるにうつつは見るものの顔面に平行してあらわれ候。」(39頁)

 そして更に彼は言う。

「どうも世界には生気とでも申すべき力があるようなり。すなわち生きた物には、死んだ物になき一種の他物を活かす力があるものと存ぜられ候。」(46頁)