芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

海鳴り

 夕方、辺りは赤味を帯びて輝いていた。月並みな表現ではあるが、夕焼けが燃えていた。山の中腹に位置する温泉街なので、晴れた日の夕暮れ時はいつもこうなのだろうか。

 バス停があった川向うから橋を渡った交差点、左手の対向一車線の急な上り坂から車が何台かおりてきて、大勢の温泉客がうごめいている。カジュアルなスタイルの人に交じって浴衣姿もチラホラ。

 旅館の一階にある土産物店で彼は絵葉書を買った。レジで精算しようとすると、

「お泊りですか。では、それはサービス品です。お持ち帰りください。明日、お帰りの節はぜひ当店をよろしくお願いします」

 見学がてら坂道を登っていくと、背後から見知らぬ男が彼の肩を叩いた。黒いサングラスをかけたチンピラ風の大男だった。

「万引きの現行犯で逮捕します」

 冗談だろうと彼は高をくくっていたが、「絵葉書の件だ、わかってるな」、彼を正面から見据え恫喝し、警察手帳をチラッと見せた。いきなり両手は手錠をはめられ、引きずるように大男に連行された。助けてくれ! 彼は叫ぼうとしたが恐怖のあまり声が出ない。横町を曲がって、誰もいない路地裏で目隠しをされ、猿轡をはめられた。大男は彼の耳もとで早口でまくし立てている、「つべこべ騒ぐと、わかってるな、これだ」、彼の首元に刺身包丁のようなヒンヤリした金属をそっと押し付けている。

 どこまで連れていかれたのか、見当もつかなかった。目隠しされて手錠と猿轡をはめられたまま、彼は大きな麻袋のようなものに押し込まれ、車で運び去られた。今夜、ある人妻とこの温泉街の旅館で落ち合う約束を彼はしていた。彼女は今頃どうしているのだろう。まさか彼女も目隠しと手錠と猿轡をされて麻袋に放り込まれ、どこかに連れ去られたのだとしたら。だったら犯人は彼女の夫だ! いや、待て、それとも、俺に怨恨を抱いている奴が他にいるのだろうか。ここまでやるくらいの恨みを持った奴。わからない。思い当たる奴はいないのだが……

 袋詰めにされたまま、コンクリートらしい硬くて冷たい場所に彼は放り出された。ひっそりしていた。海鳴りだけが聞こえていた。