芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

新型コロナワクチン雑感

 私は少年のころから医者にお世話になった思い出はほとんどない。鮮明に憶えているのは、これだけである。私は夏になったら近くの川でよく泳いでいたのだが、ある日、左の耳が中耳炎になった。まだ小学校低学年だったと思うが、四十代になったら耳が聞こえにくくなるだろう、治療をしてくれた医者にそんな予言をされたことがある。だがその予言は当たらなかった。私は数年前、七十代になったころから左耳がやや聞きづらくなっているが。

 そのうえ生来無頓着なところが私にはあり、インフルエンザのワクチンなど打ったこともない。定期健診なんて受けようとも思わない。死ぬときは死ぬ、それでいいじゃん、そう思って毎日暮らしている。時折、こんなことを考えることもある。ここまで検診や予防注射を政府が熱心に奨励するのは、いったい誰のためだろうか、そして財源はどこからやって来るのだろうか、と。

 だから新型コロナのワクチンも一度も打っていない。上に言ったように無頓着な性格が影響したばかりではない。このワクチンは治験中だ、しかし打つ必要がある。打てば新型コロナに感染しない、そういう触れ込みだった。しばらくすると、トーンダウンして、感染はしても重症化しない、政府もマスコミも前言を忘れたかのようにこんなおしゃべりをし出した。常識がある人なら、こんな発言はアヤシイ、そう認識するに違いない。それよりも、治験中のお薬をさかんに口角泡を飛ばして勧めるのはなぜだろう。治験中のお薬で治療するのは、人体実験ではないか。いったい誰のためにワクチンをほとんど強制に近い文言で勧めるのだろう。財源はどこから出るのだろう。そういうことで、私はこのお薬を注射することは遠慮したのだった。

 ただ、私が残念なのは、このワクチンをお注射しないことでまわりから批判されたことだった。ふと、戦前の大本営発表を思い出したくらいだった。日本人は昔と変わらずまた政府・マスコミの主張することを大本営発表のごとく信仰するのではないか、そんな懸念さえ覚えなくもなかった。ワクチンのごときもの、打とうが打つまいがそれぞれの人の自由ではないか。他人が私の体に触れてはならないのではなかろうか。少なくとも、私はワイフの体には触れたが、まったく見ず知らずの他人の体に触れないで人生をやってきた。

 そればかりではなかった。このワクチンに対して海外でも日本でも専門家から強い批判が出ている。ネットで掲載されているので参考にしてほしい。恐ろしい毒性が指摘されている。スパイクたんぱく質の毒性の問題や、自己免疫疾患発症のリスクなどが論じられている。私は専門家でもないから真偽のほどは分からない。しかしもし真実だとしたら、世界規模の薬害が各国政府の主導の下で実施された、そう言っても過言ではない。もし真実だとしたら、地獄は悪魔が作るものではなく、人間が作るものだった。

 ちなみに、我が国の国立感染症研究所は2021年9月30日付でこのように述べている。この見解が、おそらく現在の一般的な見解だろうか。参考のため、以下に掲げておく。

 

「人類と新型コロナウイルスが共存できるようになるためには、人類の方でワクチン接種率を高め、ウイルスに対する抵抗力を持った集団を作っていく必要がある。」