芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「シレジウス瞑想詩集」再読

 無宗教のくせに何を思ってか、私は十月辺りから主にキリスト教神秘主義の文献を読んでいるが、この本もその流れにそって、扉を開いた。

 

 「シレジウス瞑想詩集」(上巻) 岩波文庫 2005年11月16日第3刷

 「シレジウス瞑想詩集」(下巻) 岩波文庫 2005年11月16日第2刷

   上下巻共、植田重雄・加藤智見訳

 

 まず、この詩集の冒頭に著者はこう語っている。

 

 「わたしが永遠に安らぐのはイエスの心の中である」(本書上巻7頁)

 

 つまり、著者にとって、彼の内面がイエスの内面と合一する時、彼の心に安らぎが訪れるのだろう。

 この著者の瞑想の中心には、もうひとつ、大切な事柄がある。

 

 「神は純粋な無である」(本書上巻15頁)

 

 神は無であるがゆえに、すべてを受容し、すべてを創造する。従って、すべての被造物、もちろん、すべての人間をも含めて、その根底には神の無が光り輝いているのだろう。

 さて、この事柄を実際に体験するには、いったいどうすればいいのだろうか。そのための方法として、著者はこう言っている。―あなたは、この世と関係する自分の我欲を一切断ち切って、徹底して自己否定する中で、自分の内面を熟視しなければならない。その時、あなたは次のような体験をするだろう。

 

 「わたしが死に、生きるのではない。神自身がわたしの中で死に、わたしが生きるようにと絶えずわたしの中で生きているのである」(本書上巻16頁)

 

 「神があなたを生かそうと思うとき、神自らが死ななければならない」(本書上巻17頁)

 

 神の死とは何か。それは言うまでもなく、イエス・キリストである。神が自己否定して人間としてこの世に存在している。従って、瞑想によって、あらゆる我欲に満ちた外面を一切遮断・無化するとき、あなたの内面は、ただ、神の自己否定した姿、イエス・キリストひとりが光り輝いているだろう。

 私は、この著作の第一章の冒頭だけで著者シレジウスの神秘体験の一端を素描した。この後、この著作はさまざまな変化を見せながら、無、神、三位一体、イエスの周りをさながら天空の星々のように言葉になって回転するだろう。

 しかしこの著作は、無宗教で不勉強な私であってみれば、ほとんど理解不能ではあるし、余りにも敷居が高い世界ではあるが、それでいいのだと思っている。こんな偉大な人の人生ではなく、私は市井の片隅で我欲に浸って生きてきた。だが、さまざまな人々の生き様を知ることは、また、その姿にひとかけらでも学ぶことは、自分の力以上に思いあがらず、傲慢にならず、この世を謙虚になってしっかり渡ってゆくためにも、トテモ大切なことだと思う。