芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

ヤスパースの「哲学入門」

 この本は一九四九年秋、著者六十六歳の時、バーゼル放送局で全十二回にわたって放送されたラジオ講演を一冊の本にしたものである。

 

 「哲学入門」 ヤスパース著 草薙正夫訳 新潮文庫 昭和40年9月10日18刷

 

 私は十代の時に一度この本に目を通している。だが、内容はスッカリ忘れてしまった。読み進むうちに、「世界」とか「超越者」とか、そういった言葉にぶっつかって、忘れているようで覚えているような、あるいは、覚えているようで忘れてしまったのだった。

 それはさておき、何故この本をもう一度開いたのだろう。そうだった。ここしばらくストリンドベリの作品を読んでいて、ヤスパースが彼を論じていた本を思い出し、それは「ストリンドベルクとファン・ゴッホ」という本だが、この読書感想文を「芦屋芸術」のブログに書いた。その際、それならあの本も再読しておこう、そういうことで本棚の片隅から「哲学入門」を抜き出した。

 さて、人間はこの世界の内に存在していて、この世界の外に脱出することは出来ない。また、この世界の内で自分の主観によって客観を認識して、毎日暮らしている。ところで、毎日の生活が楽しいとばかり思っていたが、決して楽しいことばかりではなかった。愛している人の死に出会ったり、この自分自身にもまた死がやって来るはかない存在であることを痛切に思い知ったり、あるいは、繊細な人ならば他の生命体、例えば牛、豚、羊、鳥、魚、野菜などを毎日殺して口に運んでこの世を生きながらえていることに罪責感を抱いたりする。戦争時、荒廃した戦地で生き延びるために同僚の死体まで食べてしまった、真偽のほどは知らないが、私はそんな話を耳にしたことさえあった。たいていの人は、多かれ少なかれ、さまざまな罪を犯して、悩んだり苦しんだりしたことは一度ならずあるだろう。主観はこの世界の内に存在する客観だけではなく、自らの主観自身を客観する存在だった。従って、主観はおびただしい存在者と関係する中で、関係の欠落を経験する。すなわち、主観は不安、絶望、挫折を経験する。この不安・絶望・挫折を超越しなければ主観は安心してこの世界で生きていくことは出来ないが、言うまでもなく、主観は主観自身を超越することは不可能だった。ここに、超越者の問題がやって来る。ある主観、この人を哲学者と呼んでいいと思うのだが、彼はこの世界内に存在するさまざまな存在者の根源に超越者=ただ一つの神を発見する。この超越者と関係する関係を精密に表現せんとするのが、哲学の原点だった。

 私なりにざっと要約すれば、「哲学入門」はこういう論理を哲学史も含めて、さらに具体的に展開しているのだった。ただ、私が少し不満に思ったのは、この本では超越者に対する人間の決断や信仰に重力がかかり過ぎているのではないか、この一点だった。まあ、私のような不勉強の劣等生が何をか言わん、ではあるけれど。未読の読者よ、興味あれば、一読あれ。